加賀国江沼郡南郷村(石川県加賀市南郷町)にあったものです。
その創起の年暦については諸説があります。
一説に寛永年間(1624-44)加賀藩三代前田利常が瀬戸その他から陶工を招き、吸坂村(加賀市吸坂町)において茶器類を焼かせだのに始まるといいます。
瀬戸風の褐釉陶または備前風妬器、他に赤味がかった薄黒い磁質に青花を付けたもの、渋茶色の施釉をしたもの、瑠璃釉を交じえたもの、絵高麗風のものなどを出し、技巧が非常にすぐれています。
要するに後藤才次郎の古九谷の前駆で、古九谷はその向上したものであります。
のちには古九谷と等しく大聖寺城内(加賀市)において絵付されたと伝えられ、古九谷の着彩の一手に吸坂古九谷と称すべきものがあります。
すなわち吸坂産素地の全面に南京風の柿釉を施し、その中を円く抜き白地を露わしてその部分に色絵または赤だけで文様を描いたもの、柿釉と白磁を片身替りとし染付絵を加えたもの、柿釉と瑠璃とを染め分けて文様としたもの、またまれに備前風の妬器の上に絵呉須だけで黒絵を描いたもの、白磁に色絵を付けたものなどであります。
なおその継続年限にも諸説がありますが、元禄(1688-1704)初年の古九谷の廃絶以前あるいは同時に絶えたものであるでしょう。
(『九谷陶磁史』)