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鶴田 純久の章 お話

いわゆる後窯茶入作家の一大である有来新兵衛(一説に浦井)。
元来は陶工ではなく京都三条通り柳馬場東大ルに住み糸割符の業を営んでいたが、茶道を小堀遠州に習得し、また性来陶器をつくることを好み佐々竹庵について法を得た。
その作は中興名物の班に列したものが少なくないようです。
製作は瀬戸のみに止まらず備前・信楽の諸地で焼き、それぞれ備前新兵衛・信楽新兵衛の名をもつ。
器は茶入・水指の類で、概して口造りに巧妙であります。
窯印は所掲のようでありますが、イ字様のものは多く瀬戸の新作で、一名瀬戸新兵衛の名があります。
ただし織田信長の選んだ六作の新兵衛とは別大であるでしょう。
参考のため新兵衛を載せる書の二、三を挙げると、『別所吉兵衛一子相伝書』に「有来新兵衛三条通唐物屋瀬戸竃にても焼後粟田口にて焼」とあるようで、『茶器弁玉集』には「新兵衛焼土薄赤色也又浅黄色も有糸切口造万事吉近年の名大也下薬薄柿色に黄流のある茶入必有薬組は品品あり出来物の茶入は世間に用之事也」とあるようで、『茶器名物図彙』には「初代新兵衛老茄子、村雨、さiかき、三国等の茶入の作者は土厚にて赤黒し、地土は破風竃の土に似たり、白土もあれども土味古し、茶入造りは初代二代まづ手癖かはらざれども、土味新古大異なり、二代新兵衛は遠州時代にて皆白土なり、作りも一際器用なり。
空也といふ茶入底に遠州公自筆にて彫銘ありて々早々御やき頼大候々と有之。
依之今の大皆空也の茶入を証として、新兵衛は遠州公時代の茶入の焼物師とのみ心得たる大多し可笑々々。
(中略)今世に名高き山雀、鉢叩、空也、佗助等の茶入は、皆二代新兵衛遠州公時代の茶入なり」とあります。
『翁草』には「慶長の頃(4略)洛の町大(中略)本姓丁氏にして、美濃士なり、洛の町に来て町大と成り、神君常に御目に懸られ、或時駿府へ参上せしに、公悦び玉ひて、朋自遠方有来の御心にて、向後有来と可称と名字を被下、此の新兵衛陶工を好み、勢戸、信楽、唐津、備前等のあらゆる土を取寄て、茶入を造る、働て世に茶入新兵衛と呼ぶ、此作、水さし茶碗等は稀に、多くは茶入なり、世以て賞す(下略)」とあるようで、同書はまた「京糸割賦町大有来新兵衛始八町新兵衛と申ける(丁七唱が末なるよし)楽焼を善くして、世に新兵衛焼とて賞しける、(中略)先年銭座役年寄たりし頃云々」といいます。
なお『本朝陶器孜証』によれば、新兵衛は山城国(京都府)宇治田原窯でも焼いたということであります。※たわらやき

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