陶邑古窯址群 すえむらこようしぐん

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鶴田 純久の章 お話
陶邑古窯址群 すえむらこようしぐん

大阪南部の丘陵地帯に分布する須恵器窯跡群。
窯跡の分布する範囲は、『記紀』に開繋記事のある狭山池の周辺から、西は久米田池東方の丘陵に及ぶ東西一五キロ、南北九キロの地域であります。
現在の行政区画では大阪府南河内郡狭山町・堺市・和泉市および岸和田市の一部にまたがっています。
中でも窯跡分布の中心は旧西陶器村・東陶器村のあたりで、その周辺部では分布密度が次第に稀薄となります。
陶邑古窯址群では、これまでに五世紀から十世紀にかけて構築された須恵器窯跡を五百余基発見したが、未確認のまますでに破壊されてしまったものや未発見のものをこれに加えれば、総数はおそらく千基を越すものと思われます。
したがってこの窯跡群はその成立年代がわが国で最も古く、また奈良時代以前における窯業生産の中心として最大の規模をもっていることになります。
陶邑古窯址群の名称については、『日本書紀』巻五、崇神天皇七年の条に記載されている「茅淳県陶邑」の地名に基づいています。
茅淳は阪南一帯の地を指す古名で、血沼・陳奴・珍などとも書き『記紀』にしばしば登場する地名であります。
陶邑は文字通り「すえのむら」であるようで、陶工たちの村のことであります。
『日本書紀』の記事によれば陶邑は茅淳県の中にあるといいます。
したがって茅淳県陶邑とは大阪南部にある須恵器生産者の村のことであるようで、彼ら陶邑の工大たちが残した窯跡は阪南丘陵一帯に分布する窯跡群をおいてはほかにないと考え、この窯跡群に陶邑古窯址群という呼称を与えたのであります。
窯跡群のある阪南丘陵地帯は、金剛山地および和泉山脈を背後に控え、前方は大阪湾に臨む狭長な平野部へ続いています。
窯跡の分布する丘陵地帯の標高はおよそ40~200メ一トルの間で、丘陵地帯を構成する地層は、大阪平野の周辺部に広く分布する大阪層群であります。
この地層は比較的凝固度の低い砂榛・粘土からなり、第三紀鮮新世末から第四紀洪積世にかけて堆積したものであります。
淑跡はこの大阪層群中の淡水成粘土層または段丘堆積物をベ一スとして構築されています。
窯体の構造は、陶邑窯成立期からその終末期まで一貫して須恵器窯に通有の害窯であります。
窯体の大きさは時期によって多少の違いはありますが、全長10メ一トル前後、床面の最大幅2メ一トル前後のものが最も多いようです。
陶邑窯の窯はほとんど半地下式の構造をもち、焚口から煙出しまでをすべて刳抜式で構築している例はないようです。
ただ八世紀代の窯で、焼成部の大半を刳抜式で構築し燃焼部をこれに継ぎ足した構造のものがあります。
陶邑で須恵器の生産が始まったのは五世紀中頃から後半にかけてでありました。
初期の須恵器は器形・文様・製作手法などに、朝鮮半島の陶質土器との関連が強く現われています。
陶邑窯が操業を始めてから最初の四、五十年間、陶邑はわが国で唯一の須恵器生産地でありました。
陶邑窯の製品は中央権力の手を経て、あるいは陶工集団の管掌者であった豪族の手を経て全国各地へ供給されました。
この頃の製品の一部は遠く対馬にまで運ばれています。
やがて五世紀末から六世紀初頭にかけて、陶邑以外のいくつかの地に初めて須恵器窯が開かれ、需給の関係は大きく変わりました。
しかし地方に成立した須恵器生産地はいずれも小規模で製品の供給圏は狭かったので、陶邑窯は地方窯成立以後も依然として拡大発展を続け、須恵器生産におけるわが国の中心としての位置を保ち続けた
陶邑窯の存続期間を通じて、その規模が頂点に達するのは六世紀後半の頃であります。
製品中に、例えば小型の蛸壺など生産に用いる器種が現われ、近隣の大阪湾沿岸漁民などとの直接生産物交換による経済交流の進展をうかがわせる。
六世紀末から七世紀初頭にかけて、陶邑窯ではその製品・窯体構造など須恵器生産のあらゆる面で大幅な変化が現われます。
従来盛んに生産されていた高杯が急減し、ある種の壺形土器・提瓶・横瓶などの器種はほとんど姿を消す。
いっぽう盤・皿類・碗・長頚壺・平瓶などの新器種が登場し、器種の組み合わせはまったく一変します。
また同一器種の中で器形が一変したものも多いようです。
製品に現われた変化と対応して、須恵器窯の構造や構築法にも顕著な変化が認められます。
五、六世紀代の窯は通常使用期間が長く、壁面を幾度も補修し床は何層にも積み重ねています。
ところが七世紀初頭を境として、壁一枚、、床一層の窯が圧倒的に多くなります。
これは窯体構築の技術が進歩した結果、一つの窯体を長期にわたって使用しなくてはならないという制約から解放されたことを意味します。
陶邑窯は七世紀後半以後徐々に衰退の方向をたどる。
奈良時代に大ると東海地方に大規模な窯業生産地が出現し、各地の地方窯もそれぞれ拡大発展した結果、もはや陶邑窯の窯業生産における中心としての位置は失われ、質・量ともに畿内の一地方窯の位置へ転落します。
しかし須恵器生産は断絶することなく十世紀まで続く。
なお陶邑窯では、その成立から廃絶までのおよそ五百年間ほとんど須恵器のみを生産し、瓦などを焼いた形跡は認められないようです。
七世紀以後瓦陶兼業窯が各地に現われるが、それは地方窯の特徴であるようで、陶工と瓦工とは本来まったく別の系列に連なるものであるようで、須恵器窯としての陶邑窯では、その伝統が奈良・平安時代に至るまで踏襲されたものと解したい。
(田辺昭三『陶邑古窯址群I』)

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