製塩土器 せいえんどき

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鶴田 純久の章 お話

海水または鹸水を大れて煮沸し結晶塩を取るのに用いる土器をいいます。
手握ねによる粗製の深鉢形を基本とする薄手の比較的小型の土器で、成形に用いられた平行線や格子目などの叩き型の跡を残すものが多いようです。
加熱した時破損し難いように胎土に多くの砂疎を混ぜてありますが、煮沸中に鹸水が器壁に染み込んで硫酸カルシウム・炭酸カルシウム・塩化ナトリウムなどの結晶が生成しているため、次回の加熱の際にこの結晶が膨脹して器壁を剥離させるから、土器が破損しやすい。
製塩遺跡では、加熱や結晶のために紫褐色に変色してこまかく壊れた土器片が大量に発見されます。
製塩に使われた土器は、関東地方の縄文時代後期末にも、東北地方の繩文時代晩期にも認められていますが、本格的な土器による製塩が始まったのは弥生時代後期以後であるようで、瀬戸内海東部の沿岸にその中心がありました。
この地域で成立した製塩法が、古墳時代に大ってまず瀬戸内海一帯に広がり、次いで各地の海岸地帯に波及していきました。
したがって製塩土器といえば大部分が土師器であるようで、土器による製塩法の成立期の弥生式土器がこれに加えられ、現在のところなお系譜関係の明らかでない縄文式土器も含まれていることになります。
現在製塩土器が発見されている地域は、熊本県の天草島と宇土半島・瀬戸内・紀伊半島・若狭湾・能登半島・佐渡が島・知多半島から渥美半島にかけての三河湾沿岸などであります。
瀬戸内海東部の製塩土器は師楽式土器と呼ばれる。
弥生時代には台付の小型の深鉢形で、古墳時代に大って四世紀にはこの形を継承して口径をやや大きくつくり、五世紀から六世紀初めにかけて極めて薄い平底風の丸底をもつ小型鉢形となり、六世紀中頃から七世紀にかけての土器製塩の最盛期では、大き目の厚い丸底の鉢形土器が使川されました。
香川県香川郡直島町喜兵衛島遺跡では石敷きの製塩炉が発見されています。
各地域で発達した土器は、瀬戸内海西部の美濃が浜式土器、熊本県の天草式土器、紀伊半島の目良式土器、若狭の船岡式土器などの名称が与えられています。
製塩土器は、奈良時代に始まった鉄釜・石釜あるいは土釜などの塩釜を使用する新しい製塩技術が普及するにつれて、平安時代にほぼ消滅しました。
(近藤義郎「生産の発達製塩」近藤義郎・藤沢長治編『日本の考古学古墳時代(下)』、近藤義郎・渡辺則文「古代・中世における基本産業製塩技術とその時代的特質」三上次男・楢崎彰一編『日本の考古学歴史時代(上)』)

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