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鶴田 純久の章 お話

粘土を型に大れて成形し、焼成してつくった建築用材。
灰黒色で直方体のものが多いが、例えば筒形天井には模形の坊というように、使う位置に即応してつくられた特殊な形もあります。
つまり中国で発達した煉瓦のこと。
専・坊・躾・助・壁などの字が用いられましたが、現代中国では蒔、わが国では敷瓦ともいいます。
同じ建築用材で、成形ののち乾燥させただけで使用したものを土萌とか泥坊といいますが、現在のわが国ではヨ一ロッパ風に日乾煉瓦といいます。
日乾煉瓦は西アジアと中央アジアで建築用材として盛んに使われましたが、東アジアでは坊が多く用いられました。
埓は形状によってその大部分が条坊と方坊と空坊とに大別されます。
条坊は長方形であるから長方坤ともいわれ、最も一般的なものであるようで、城壁・家屋・塔・墓室などの構築に用いました。
長辺三〇センチ前後、短辺一五センチ前後、厚さ五センチ前後のものが多いようです。
一方の長手と小口に図文や文字を陽刻で表わしたものがあって、当時の風潮を知ることができるばかりでなく、特に文字の内容は、年号、墓の被葬者あるいは造営者、路の製作者、吉祥句などであるから、路は正確な建造年代や被葬者その他のことを知る重要な資料であります。
方路は方形のもので、床や建物の周囲、あるいは道に敷くか壁面に貼り付けたものであるようで、一辺三〇センチ前後、厚さが五センチ前後で、表面に図文や文字を陽刻で表わしたものがあります。
空路は空心坤ともいわれ、条坊や方埓と違って中空につくられていることに特色があるようで、名称もそこに由来します。
形は長方形・方形・三角形・柱形・屋根形を付けたものなどいろいろ変化があるようで、大きさもさまざまでありますが、大きいものでは長さが二二〇~一四〇センチに達します。
表裏両面に押型による陽文あるいは陰文の装飾で、大物・車馬・騎馬・狩猟の光景・烏・獣・魚・樹木・家屋・銭文・獣環・各種の幾何学文を密集して付けています。
空博はそれぞれの形を使って墓室を組み立てるのに多く使われたことから端博とも呼ばれるが、宮殿などの地上の建造物にも使用されました。
博の製作所跡はほとんど注意されていないし、また博そのものを製作技法の観点から詳細に検討した研究も行なわれていないので、時代は降るけれども製作のあらましを知ることができる中国明代の宋応星の『天工開物』によって、博の製作過程を書き抜いてみると次のようになります。
土質を調べて、粘って散らず粒子がこまかくて砂のない上等の土を選び、水で潤し、牛に足で踏ませて土をこねる。
木枠に詰め、鉄線弓で土を切って素地をつきます。
素地を窯の中に大れ、百斤(六〇キログラム)の目方のものを焼くには一昼夜かかります。
薪で焼く窯と石炭で焼く窯とがあって、薪の時は青黒色となり石炭を使うと白色となります。
薪の窯は頂上と側面に三個の穴をあけて煙を出し、大が十分になって止める時に泥で固くその穴を塞ぐ。
それから水で転拗する(「瓦窯」の項参照)。
大加減が一両少ないと転拗した色に光沢がないようです。
三両少ないともとの土の色がところどころに残っていて、霜や雪を受けるともとの土に戻ってしまう。
大加減が一両多いと裂け目ができ、三両多いと縮小してひびが大り、曲がったままで使用に適さないようです。
大加減は窯の穴から内壁を透してみる。
上が大気を受け、形がゆらゆら動いて金銀が熔けきった時のような状態になります。
そこを見分けるのが陶工頭の仕事であります。
石炭窯では薪窯に比べて高さを二倍にし、上部を段々小さくして頂上を塞がずにあけておく。
石炭でつくった直径一尺五寸(四五センチ)の大きなたどんを一段、その上に剱を一段と交互に積み重ねて置き、葦を積み上げて燃やしつける。
空博は戦国時代から漢代に至る短期間に使用されたもので、出土地もほぼ中原に限られます。
殷・周以来の伝統的な竪穴木棹墓の木材に代わるものとして用いられました。
黄河流域の気候は乾燥していて森林の発育に適さなかったので、空坊の発明は木材の不足を補うものでありました。
前漢末になると空博と条坊を併用した博室墓が現われ、後漢では空博の使用がまれになり、条博で構築した坊室墓がもっぱら行なわれるようになりました。
博室墓は床に条博を敷き、同形の条坊の長手あるいは小口が壁面に出るように積み重ねて四壁を築き、そののち博積みを少しずつ中にずらせて宮隆状の天井をつくるか、模形の博をア一チ状に組んで筒形天井をつくったものが最も一般的な構造であります。
博室墓は後漢代に中原から中国全土へ、さらに東は平壌付近、北は内蒙、南はインドシナまで広がりました。
方堵も戦国時代からあります。
地上の建造物に用いられた例として、趙王城の土台と推定される遺跡では、条博と方博とが礎石列の外側を巡らすかのようなあり方で、長手を上にして縦に埋めた状態で発見されました。
この博の表裏には純悪文があります。
これは『天工開物』に記された成形法と違って、木枠に詰めた粘土の両面から、縄を巻いた叩き型のようなものを使って、あるいは悪状のものを媒介として叩き締めたものであります。
漢代になると方博を敷いて歩道や床面をつくった建物の跡が知られています。
この方堵には雷文などの幾何学文や小突起を全面に付けて滑り止めをつくってあります。
四川省の後漢代の崖墓から発見された方博には、西王母のような宗教的な図、収穫のような生産活動の図、車馬・宴・賓客の図などがあって、当時の生活の実体を知ることができる貴重な手がかりとなっています。
後漢代には博室墓の床面を網代組とし、壁面を長手平積みと小口縦積みと交互に重ねて構築する方法が次第に一般化して、三国・南北朝時代に継承されました。
この構築方法の系統に属するのが、著名な百済の古墳である朝鮮の公州宋山里の堵室墓であって、博の壁に粘土を塗って玄武・朱雀・青竜・白虎の四神を描いています。
坊室墓は唐以後も引き続いてつくられたけれども、条坊には図文を付けなくなります。
それは壁面を白く塗って壁画を描き、木造建築の細部を忠実に表現することが行なわれるようになったからで、内蒙古のワ一ル一イン一マンハにある慶陵もこの手の墟室墓であります。
大阪府高槻市奈佐原の阿武山古墳は、花肖岩と坊とを用いて墓室をつくり、内面を漆喰で塗って仕上げてありました。
墟はまた棺台にも石室天井の上にも用いられていました。

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