双耳杯 そうじはい

鶴田 純久
鶴田 純久

二つの耳のある杯。耳杯・羽島ともいいます。
中国漢代には周代の代表的な酒器であった爵は姿を消し、杯式が盛行しました。
その楕円蓋形に双耳の付いた形をしているところから考えて、陶車応用を原則とする土器として発生したものとはなし難く、遺品に徴して類推するとこれはもと天然物をそのままあるいは多少加工して用いたのを源流とするもので、次いで土器の段階を通過することなくただちに玉・金属・木漆器に移行したものと思われます。
荘重な周代並びにそれ以前の酒器に比して漢代の杯が非常に軽快であることから、その形式の成立について学者の多くは西域の影響に帰するのを常とします。
今日見得る古い遺品に多い漆杯(湿潤な湖南方面の産である)は飽のようなものと本質的に最も近く、かの獣角から発生した爵形のものの北方的・寒地的なのに比して、杯は南方的・暖地的で、また少なくとも侯漆の技術そのものが南方的であるところからみても杯は南方のものであったにちがいないであるでしょう。
またトロヤ発掘の双耳黄金杯はかのホメロスの詩中のデパス一アムフィキュウベルロンで、その形式に漢の双耳漆杯との著しい類似がみられます。
漢代には漆のほかに青銅製・陶製の双耳杯がつくられています。
唐・宋を経て中国の窯工はすこぶる進歩しこの形式を模した窯器もあります。
しかし双耳のある杯としては楕円蓋形の源流的な形態は少なく、多くは円形で四角なものも少なくないようです。
清代の甕杯について『飲流斎説甕』は「康煕窯の蜜黄色凹彫暗花にして耳竜形をなすは御窯なり、尋常の双耳は即ち小なるを貴しとなす、乾隆窯の金醤色の小杯金花を絵き双耳あるものあるようで、頗る軽盈の致を具へたり」といいます。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email