京都の陶家真清水蔵六。
初代蔵六は山城国乙訓郡久我村(京都市南区)の庄屋清水家の九代源右衛門の三男で、1822年(文政五)生まれ。
幼名太三郎。
十三歳で京都の和気亀亭に大門し、1838年(天保九)十七歳の時青磁を焼き出藍の誉がありました。
また中国・朝鮮の古陶を研究し、1843年(同一四)五条坂に開窯し名を蔵六と改名、のち妙法院宮の命によって真清水を姓としました。
玄々斎宗室に茶を学び、1864年(元治元)献茶の器をつくり宗缶の印を与えられた。
明治初年政府の奨励を受けて外国博覧会に出品、また貿易に従事し色絵・金欄手をつくり、内地向けとしては青磁・染付または高麗・宋・元・明の磁器を模造したが、抹茶器を最も得意としました。
自ら好んだ製器には糸巻二重の中に宗缶の二字の印を用いました。
別に保寿・百寿・真清水蔵六などの印がありますが、多くは蔵六の印を捺しました。
1877年(明治一〇)6月12日没、五十六歳。
妻チカもまた陶技をよくし、長男が二代蔵六を継いです。
1861年(文久元)生まれ。
幼名寿太郎。
国内各地を巡遊し、1889年(明治二二)・中国、1910年(同四三)朝鮮に渡って調査し、1917年(大正六)宇治郡山科村大字西野山(東山区山科)に窯を開き、1931年(昭和六)老齢のため窯焚きに耐えられず業を中止しました。
初めは父の百寿の印を襲用し、十八歳の時春泉と号してからは春泉の印を用い、二十五歳以後は蔵六の印を捺しました。
泥中庵という別号があるようで、著書に『陶寄』『古陶録』などがあります。
(『工芸志料』『観古図説』『日本陶甕史』『日本窯業大観』)