茶碗薩摩

薩摩茶碗 銘 野々宮

高さ:8.6cm
口径:10.1~10.5cm
高台外径:6.1cm
同高さ:1.0cm

 薩摩の茶碗は、帖佐系の窯に、すぐれた作があります。島津義弘は、慶長五年、関ヶ原の合戦に敗れて帰国しますと、朝鮮から連れ帰った陶工の一人、金海(星山伸次)を。帖佐の宇都の居館に呼んで、その付近で御庭窯を築かせました。これが、世にやかましい古帖佐の起こりです。慶長七年、金海は主命で尾州瀬戸へ修業に出かけ、五年後に帰っていますが、以来、作ふうに瀬戸ふうが加味されています。慶長十三年、義弘は帖佐の東方の加治木に移りましたが、金海も窯を移しました。これが御里窯です。ここでは元和五年、義弘が八十五歳で没するまで、十二年間も続いていますが、帖佐の宇都窯と、加治木の御里窯の作を併せて、世に古帖佐と呼んでいます。義弘の没後、金海は鹿児島城の島津家久に召されて、その子金和とともに同地に移り、城北の竪野聯和に窯を築いたのが、有名な薩摩焼の主流、竪野焼の起こりです。
 竪野窯も、要するに帖佐系ですが、ことに初期のものには、釉法などに古帖佐ふうの特色が濃いです。しかし時代の推移につれて、作ふうの上には変化がみられ、たとえば古帖佐茶入れでは、織部好みが著しいのに対して、初期の竪野茶入れでは遠州好みが現われ、判然たる遠州切り形の、甫十瓢形茶入れさえ生まれています。それで、俗に古薩摩と呼ばれるものには、古帖佐に対して、竪野の初期のものをさす場合が多いです。
 古薩摩の茶碗の中で、最も有名なのは、やや厚手の半筒で、□辺が少しかかえ、釉が掛け分け、ないし重ね掛けになっている手です。素地はかっ色で堅く、高台は大ぶりで、唐津ふうとは違った作りで、高台内にも釉がかかっています。遺品を見るのにいずれも作ふうが共通で、一種の形物茶碗の観があります。釉では栗皮色の、光沢のない茶褐釉(ときにそばがかった緑褐色を呈する)がことに独特で、俗に古薩摩釉と呼ばれていますが、古帖佐の特色を伝えています。全体の趣において、高取白旗山窯の遠州好み流し釉茶碗と脈相通じるものがありますが、釉の掛け分け、ないし重ね掛けの意匠にも、遠州好みのかおりが濃いです。
 この茶碗は、古薩摩同手の中でも、白眉として推されるもので、作ゆき、釉景ともに間然するところがなく、まことに国焼茶碗の中にあっても、屈指の名碗と称してよいです。箱書きに「乃ゝ宮」とありますが、これはもとより野々宮のことで、おそらく釉景の一部を流れに見立てて、野々宮の祓いにちなんでの銘でしょう。
 胴央に一すじ、箆めのような胴紐がめぐって、姿に凛とした張りが出ています。黒釉や褐釉、藁灰釉の掛け分けや袈裟掛けによる、渋いうちに瀟洒な釉景の意匠は、一段とみごとで、類品の中でも至妙というべく、仕上げの白釉なだれ、また点晴の上がりを見せています。高台も、どっしりと重厚で、やや厚手の作りや、渋い釉調に加えて、いささかも軽薄に堕するところがありません。優雅のうちに、混然たる初期の風格を失わないのは、偉とするに足るもので、ここにこそ、古薩摩の真面目をうかがうことができましょう。高台内には山割れがあり、なお、くっつきが高台内と脇にあります。
 付属物は、
内箱 桐白木 蓋表書き付け 小堀権十郎「乃X宮」
伝来については、詳しいことはわかりません。
(満岡忠成)