蛸釣陶器 たこつりとうき

marusankakusikaku
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鶴田 純久の章 お話

伊予国野間郡波止浜(愛媛県今治市波止浜)には蛸で陶器を釣るという奇習がありました。
その由来は次のとおり。
関白秀吉が織田有楽斎に命じて喫茶用の陶器を広く諸国に求めさせた際、有楽斎の家来上田藤右衛門が九州の陶窯で珍品奇器をつくらせて船で帰りましたが、その途中海難に遭い伊予国宮崎の一小湾に避難しました。
藤右衛門はすぐに上陸し農夫の森某の家に入ったが、たまたまその頃秀吉が病死しました。
船長の某は欲深な性質で、これを聞いて藤右衛門が上陸している隙をねらってこっそり茶器数百点を盗み、船を沈めて自分は行方をくらませた。
藤右衛門はこれを聞き、その罪は死に値するものとして切腹しました。
1598年(慶長三)10月9日のことであります。
村民は唐津明神の一小祀をつくって藤右衛門の霊を慰めました。
その後1827年(文政一〇)の夏、九十郎という漁夫がたまたま陶器を抱いた蛸を釣り上げました。
そこで細縄を蛸の足に結び付けて海中に放ちますと、蛸は海底およそ五〇メートルまで下がり、そこで逃げようとして固く陶器に吸いつきます。
その潮時をねらって縄を引っぱり上げますと、海底に埋まっていた陶器が忽然として蛸に抱かれて出て来ました。
それ以後この方法で引き揚げられた陶器の数は大変なものでありました。
その器は膚の面の色が変わり、一面に燐殻などが付着したのもあるようで、また海潮のために塩化して自然のおもしろみを呈するのもあるようで、その崎品尤物ぶりは大目を驚かすものがあったといいます。
(『波止浜鱒釣陶器の来歴』)

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