千烏の香炉 ちどりのこうろ

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鶴田 純久の章 お話

大名物。青磁香炉。
『玩貨名物記』には「千鳥なる青磁聞香炉二つありて、一は尾張様、一は堀美作殿」とあるようで、『古今名物類聚』にも同じく二つを載せ、尾張侯が蔵していたものはもと紹鴎が所持していたとのことを記しています。
松山吟松庵によりますと、堀家旧蔵のものはのち加藤正治家に伝来したといいます。
また宮中の御物に千鳥の香炉があるようで、かつて京都恩賜(国立)博物館に出陳され。
1929年(昭和四)春の東京上野での日本名宝展にも出陳されました。
これは円筒三足の香炉でありましたが、『玩貨名物記』所載の尾張家旧蔵のものである’か否かはわからないようです。
ともかく千鳥の香炉は古く戯曲に書かれるなどして一般にも著名なため、その興味ある歴史的逸話だけを略記しますと、『雍州府志』には「織田信長上洛の瑚列侯以下の良賤来りて謁を取る、時に今川氏真また来り見え千鳥青磁の香炉を献ず、こは宗紙法師の珍蔵、しかして千鳥の名は古歌の義を取りて之に号けしものなり」とあります。
『武徳編年集成』にも氏真が信長に献じた旨を記してありますから、今川家の秘蔵物であったのであるでしょう。
また『責而者岬』『細川三斎茶書』によりますと、細川幽斎のところに千鳥の香炉がありましたので、明月の夜蒲生氏郷が幽斎を訪ねてそれを拝見したいと懇願したところ、幽斎はたいへん不機嫌そうに香炉の灰を除いて見せました。
他日氏郷が里村紹巴になぜその時幽斎が不機嫌そうだったのかを尋ねたところ、紹巴は「幽斎はまことの歌人であります。
順徳院の御製に夕清見潟雲もなぎたる波の上に月の隈なるむら千鳥かな々とありますので、明月の夜に千鳥はふさわしくないと不機嫌だったのであるだろう」と説いて答えたといいます。
氏真の所持した千鳥と幽斎の所持したそれとは同名異物であるのか、または幽斎から今川家に渡ったものなのかはわからないようです。
『市井雑談集』には「千鳥の香炉といへるは駿州今川家の重器なりしが氏真牢落し織田信長へ譲る、信長莞後秀吉の手裏に入る、天下無双の名器也、或は伝へ云ふ、五右衛門搦めらるs時、板敷へ落し小く瑕つきたりと也」とあります。
また『太閤記』に至っては、石川五右衛門が忍びの術で太閤の寝所に忍び入った時。
この香炉が鳴いたので千鳥というのであるとの俗説を載せています。
そしてこの香炉は五右衛門を搦め捕った仙石権兵衛に授けられたとの説もあります。
『類聚名物考』には、慶長(1596-1615)の頃、ある人が雪の夜に加茂川に千鳥を聞きに出たところ、自分より先に蓑笠を付けた人がいて、その逃げた跡を見ると名香を焼き捨てた香炉がありましたので、これを千鳥の香炉と名付けたとのことを記しています。
このある人を足利義政だとし、千鳥は香を好んで集まるとか、あるいはこの香炉は千鳥を聞く人が寒さを凌ぐための手焙りで、手取りの香炉という意味だなどという説も出ました。
また香炉の嘴と足とが低いからいうのだという説もあります。
しかし『遠碧軒記』にいうように、足が紙一枚通る程にやや上がっているために千鳥手というのだという説が最も妥当であるでしょう。
『洗心録』には、千利休が新たに入手した青磁の香炉をながめて、その妻の宗恩と同感し千鳥足に似た不揃いの足を一分だけ切ることに決め、これに千鳥の香炉の名を与えたとあります。

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