津田宗及 つだそうきゅう

marusankakusikaku
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鶴田 純久の章 お話

茶人、堺の人商人天王寺屋津田宗達の長子。
生年月日は不明。
通称助五郎、大徳寺の大林和尚から天信の道号を授けられ、また更幽斎と号しました。
なお受世法眼と称したともいわれます。
堺会合衆の職を継ぎ早くから織田信長に近づき、1568年(永禄一一)信長が堺に二万貫の矢銭を課した時、仲介して堺の安泰を保りました。
紹鴎流の茶を父に学び、今井宗久・千利休と共に信長・秀吉の茶頭となり三千石を領したといわれます。
多芸多能で、茶のほかに和歌・連歌・花道・香道・蹴鞠・刀剣の鑑定に長じ、家重代の茶器百五十種を蔵しました。
新しい作意に名があるようで、雪中での利休との香炉茶の湯の逸話が伝えられています。
1591年(天正一九)4月20日没、享年不詳。
なお天王寺屋は祖父宗柏の代から堺において頭角を現わし、父宗達の代には石山本願寺および三好氏とよしみを通じ、政商として巨大な財力を蓄えました。
宗柏は連歌を牡丹花肖柏に、茶を珠光に学んだといわれ、宗達は紹鴎の茶を伝え大林和尚から大通の道号を受け、宗達台子の四飾りをはじめ多くの名器を集め、目利作意をもって聞こえました。
なお天王寺屋の一族は皆茶を好み、宗柏の弟の了専、宗達の弟の宗閑、了雲・道叱らの名も知られています。
また宗及の長子は宗凡、次子が大徳寺の江月和尚であります。
「天王寺屋会記」茶の湯ばかりではなく一般歴史資料としての一級品といわれるこの書は、天王寺屋三代にわたる自会・他会の茶会記で、合わせて一六巻より成り、一巻から四巻までが宗達の会記で、1548年(天文一七)から1566年(永禄九)に至るものです。
五巻から一三巻および一五巻と別巻が宗及の会記で、1565年から1585年(天正十三)に至るものです。
一四巻が1590年(天正一八)の宗凡の他会記。
総会数二千五百六十余会の尨大な記録であります。
『津田宗及茶湯記』と呼ばれていましたが、永島福太郎の考定により『天王寺屋会記』として『茶道古典全集』第七・八巻に収められています。

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