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鶴田 純久の章 お話

宮城県仙台市堤町の産。
元禄(1688-1704)初年江戸の陶工上村万右衛門は当地に来て楽焼茶器をつくり杉山焼と称しました。
常に藩用の茶器を命ぜられ、国産陶器として奨励されました。
万右衛門の没後一時衰願しましたが、宝臍(1751-64)の頃遠江国(静岡県)の大菅原善右衛門がこれを再興し、一種の型をもって硬焼の瓶類を出しました。
安政(1854-60)に至って庄司義弘が乾馬と号して朝鮮三島風の陶器を出し、また蜂屋巳之吉という者が黒焼物を始め、もっぱら地方実用向きの水瓶・火鉢などを製しました。
近年堤町において製出された土管類はこれの継承であります。
一書によれば、維新前佐藤玄馬という者が玄馬焼と称する一種の茶碗類を製造したところ、その声価が大いに上がりました。
会津焼などに次ぐ良製でありましたが、玄馬はこれを拡張しようとして茶碗一個を三文で売ったので三文玄馬焼と呼ばれたといいます。
またこの地の人形は堤人形として名高く、同じく上村万右衛門の創始で、菅原善右衛門がその中興でありました。
現在も継承しています。
(『大日本窯業協会雑誌』四九〇『工芸』三九)

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