寺内信一 てらうちしんいち

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鶴田 純久の章 お話

1863年(文久三)周防国吉敷郡宮野村梅畑(山口市宮野)に生まれました。
1877年(明治一〇)上京し、翌年工部美術学校に入学、イタリア人ラグ一ザ教授の指導で石材彫刻を学びました。
卒業後皇居造営事務局に勤務し、イギリス人コンドルの製図で正殿の五十分の一の模型をつくりましたが、西洋風の建築が中止となったので退職して陶業に志し、愛知県常滑の鯉江高司の招きに応じて陶彫をやっていましたが、のち常滑美術研究所教師となりました。
1887年(同二〇)7月から瀬戸の高等小学校に製陶手工科が置かれてからは、常滑と瀬戸の両校に兼勤往復していました。
1896年(同二九)瀬戸陶器学校訓導となって陶彫の指導に力を注ぎました。
1898年(同三一)納富介次郎の招きによって佐賀県有田に移り製陶家の実地指導技師となりました。
また有田徒弟学校教諭、有田工業学校教諭を経て、1903年(同三六)有田工業学校長となりました。
1911年(同四四)休職して中国に渡り湖南省長沙高等工業学校教授となりましたが、革命動乱のため一時帰国し、平和後再び赴任して窯業課長となり、三年間在任したが病気のため帰国しました。
その後東京に帝国ホテルが新築されるに当たって、製材技師として愛知県西浦町(常滑市)に工場を起こしラフチックス、ホロタイルなどの製造を始めたが、これを伊奈長太郎に委任して自身は再び教育に従事し、愛媛県砥部高等学校長となりました。
1928年(昭和三)正六位に叙せられ六十六歳で退職、有田に隠棲して一時香蘭社および柿右衛門合資会社の顧問となりました。
1930年(同五)春から自宅に窯を築き陶彫を試み、自適の生活をして晩年を送りました。
彼は、わが国の大理石がヨ一ロッパのものに比べて劣るところから陶磁によって不朽性の彫刻をやろうと志し、それが機縁となって陶磁教育事業に一身を捧げたのです。
陶磁に関する多くの著書があります。
1945年(昭和二〇)5月11日没、八十一歳。

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