納富介次郎 のうとみかいじろう

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鶴田 純久の章 お話
納富介次郎
納富介次郎

明治期の窯業界の先覚者。介堂と号しました。
肥前国(佐賀県)小城鍋島家の家臣柴田花守の子で、幼い時父に従って有田に移り、画を父の花守に学び、また長崎に行って南画を修得しました。
のち訳あって本藩佐賀に転じ納富姓を名乗りました。
1862年(文久二)中国に行きつぶさに政情を視察し、帰国後大阪にある佐賀藩商会の顧問として上海貿易を始めました。
1873年(明治六)オーストリアのウィーン万国博覧会の時川原忠次郎と共に渡航し、ワグネルの世話で当地の工場に人り塑像石膏模型など製陶の諸技術を研究し、翌年さらにフランスに行き各地の製陶場を視察しました。
帰国後は東京内山下町(港区)の勧業寮で石膏模型鋳込法、匝鉢および皿製造法などの新技術を各地の青年に伝授しました。
1876年(同九)アメリカのフィラデルフィア万国博覧会に審査員として出張、なお各種の工芸および製陶法を習得しました。
1878年(同一一)塩田真らと共に牛込新小川町(新宿区)に江戸川製陶所を起こし、自ら考案した新窯を築いました。
1882年(同一五)石川県に赴き陶・銅・漆器の改善に尽力し、1887年(同二〇)石川県工業高校を創立、次いで1894年(同二七)富山県工業学校、1896年(同二九)香川県工業学校を創立し各その校長となりました。
さらに1898年(同三一)有田でフランス・パリ万国博覧会出品協会が成立するとその技師長に任ぜられて各地の技術者を指導し、1900年(同三三)には佐賀県工業学校を創立しその校長となりました。
1906年(同三九)退職、東京で余生を送っていたが1918年(大正七)七十五歳で没しました。
(『日本近世窯業史』『有田磁業史』『九谷陶磁史』『越中製陶史稿』『茶わん』二一)

納富介次郎ウィキペディア

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