重文。
円覚寺の開山無学祖元が、上野国世良田の長楽寺住持一翁院豪に嗣法の書を与え、これを公示するために上堂したときの偈。
禅宗においては、禅の真髄いわゆる仏心印を師匠から弟子へと正しく伝えることがすこぶる重視され、師匠は弟子に伝法するに足る者が出ると、彼に印可証明の状を与え、次いでこれを公開の席で発表する定めになっている。
無学は豪快凜然たる性格の裏に脱俗温雅の性格を秘めた巨匠であるが、その人柄がよくこの一幅に出ている。
彼の墨蹟中の代表的なものである。
無学祖元、正しくは子元祖元は臨済宗破庵派の無準師範の法嗣で、雪巌祖欽・兀庵普寧・東福寺開山円爾らと同門。
「乾坤孤節を卓するに地無し・・・」という一偈によって元兵の白刃を免れた話は有名。
弘安二年(1279)来朝して鎌倉建長寺に住し、北条時宗を鍛錬激励して弘安の役に対処させ、役後、時宗創建の円覚寺開山第一世となり、弘安九年、61歳で示寂、仏光禅師と勅諡され、さらに円満常照国師と加諡された。
一翁院豪は、無学の来朝に先立つこと約四十年前に入宋して無準師範に参じたが、印可を受けずして帰朝、世良田の長楽寺に住し、無学が鎌倉に来ると大いに喜び70歳の老齢をおして彼に参じ、「香厳撃竹」の公案を痛快に透過して印可状(国宝・相国寺蔵)を与えられた。
そのときの上堂のがこの幅である。
その後長楽寺で大法挙揚に勤め、弘安四年(1281)、72歳で示寂。
【寸法】本紙縦35.3 横96.5
【所蔵】五島美術館