五島慶太 ごとうけいた

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鶴田 純久の章 お話

実業家。1882年(明治一五)長野県小県郡の別所温泉の近く青木村の小林家に生まれた。松本中学から東京高等師範学校(現東京教育大学)に学び、三重県の4日市商業の英語教師をしたが、志を立てて東京大学へ進んだ。この間、富井政章・加藤高明の家庭教師をして学資を得ていたが、ちに首相となった加藤高明の剛腹な性格に大きな影響を受けたという。明治末年東大法科を卒業し、農商務省から鉄道院へと十年程エリート官僚の道を進んだが、1920年(大正九)役人生活に見切りをつけて武蔵電気鉄道会社の重役となった。
武蔵電鉄は東京横浜電鉄と改めて、1932年(昭和七)東京渋谷と横浜桜木町間を全通。のちその社長となり、第二次世界大戦中には、小田急・京浜・京王・相模・箱根登山鉄道などの大中私鉄を合併して日本一の大私鉄・大東急を建設し、東条内閣のもとで1943年(同一八)には内閣顧問、1944年には運輸通信大臣になった。この間、東横百貨店を経営し、戦後には東横映画(東映)を始めるなど多彩な活動振りを示した。なお彼は、役人時代に朝鮮で鉄道経営をしていた久米民之助の長女と結婚し、その祖母の家で絶家となってい五島家を起こし、五島に改姓した。彼の美術品への関心は古写経の逸品を集めることから始まり、奈良時代のもの三十余点、平安のもの八十余点、それに国宝・理趣経など鎌倉以降のもの約百点が、「紫式部日記絵詞」などの数々の名品と共現在五島美術館に納められている。次いでその興味は茶道具関係に広がった。茶の湯との接触は、1939~40年(昭和一四、五)頃小林一三(逸翁)の大阪池田の自邸での茶会に招かれたことに始まり、自らも茶を習い始め、戦後の1950年(同二五)初めて茶会を開き、1953年(同二の東京護国寺での大師会では、円成庵を担当して自ら掛釜を行なった。その時の道具組は、伝徽宗皇帝鴨図、国宝・茂古林の墨跡、井戸茶碗(銘九重)、利休所持円座肩衝という豪華な大名物揃いであった。晩年日本の茶碗を多く集め、現在それらも五島美術館に収蔵されている。その中の鼠志野茶碗(銘峰の紅葉)は有名。1959年(同三四)没、77歳。

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