後藤才次郎 ごとうさいじろう

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鶴田 純久の章 お話

加賀国(石川県)九谷焼の開創者。諱を忠清、晩年玄意と号した。わが国金工の名家後藤家八代顕乗の弟の市右衛門の曾孫で、義祖父才次郎吉定よ大聖寺藩主前田利治に仕え、銀座役を勤めて百五十石を領した。忠清は特に金刻冶金の技に長じ、また仏像を彫ることに妙を得ていたという。
かつて江沼郡九谷村(山中町九谷町)に金坑があり、その口は四十余所に達していた。忠清は若年の頃から父才次郎定次と共にここにいて、金銀の吹分をなし常に火炉に親しんでいた。同藩においてはすでに製陶の試みがあって、父定次もこのととにかかわっていたが、1659年(万治二)忠清26歳の時、父に代わって進んで主命を奉じ肥前国(佐賀県・長崎県)に製磁法を習いに行った。たまたま長崎に行き、中国明朝から亡命の陶工数名に会い、伴って寛文(1661~73)初年に帰藩し、旧地九谷村に陶窯を築いて明様五彩の磁器をつくったという。これがすなわち後世古九谷と称される彩画磁器である。つまり忠清は陶工ではなく、直接の技工は彼が使っていた中国陶工によってなされたものである。なお才次郎は当時すでに士籍を離れ、製陶専属として九谷村に移住したようである。1704年(宝永元)3月24日没、71歳。以上は松本佐太郎著『九谷陶磁史』によるが、後藤才次郎については異説が極めて多い。※こくたに

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