江戸の陶工。肥前国三川内(長崎県佐世保市三川内町)の『今村文書』によれば、高原五郎七の弟子平兵衛という者がおり、大阪天満で五郎七が没すると自ら竹原(高原)を名乗り、その子孫が江戸に残っていたという。また1804年(文化元)の『武鑑』には「御茶碗師浅草門前町高原平兵衛」とみえている。