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鶴田 純久の章 お話

大名物。漢作肩衝茶入。
一名木下肩衝または都帰り。
『松屋日記』に「種村肩衝近江の種村殿所持候故也」とあります。
のち佐久間不干斎を経て木下宮内少輔に入り、木下肩衝といわれました。
さらに堺の町人のもとに移りましたが、狩野探幽か大金を出して購入。
1657年(明暦三)の江戸の大火の際探幽の家も火にかかったので家人にこれを持って逃げるように命じましたが、火の廻りが早く家人はこれを路傍に打ち捨てて危うく免れ逃げました。
のち京都の飛脚がこれを拾って持ち帰り、唐物屋の橘屋宗元に売り渡しました。
橘屋は江戸の大火で拾った唐物茶入ということですので、それがもし江戸の高家または幕府のものであったら後日処罰されると思い二条城の所司代牧野佐渡守親成に訴え出ました。
親成はかねて茶事を嗜み探幽とも親交がありましたので、それが探幽所持のものであることをすぐに知り、橘屋の買金三百貫目を立て替えて探幽に知らせました。
探幽はさっそく門弟に金を持たせて茶入を受け取って来させたといいます。
このことから一名都帰りともいわれます。
探幽の没後どこにあったかは明らかでありませんが、松平不昧がこれを求めた際には伊勢屋次郎右衛門のもとにありました。
茶入としては丈が低く、いわゆる半肩衝であります。
底は板起こしで、総体の色は唐物特有の飴色釉のほかに青白い蛇蝸釉がむらむらと掛かり、その蛇蝸釉が二段に交わって底までなだれています。
また胴の右手、肩のあたりに釉抜けがあって景色に変化を与えています。
(『天正名物記』『山上宗二記』『東山御物内別帳』『玩貨名物記』『古名物記』『松屋日記』『明良洪範』『可観小説』『古今名物類聚』『大正名器鑑』)

たねむらかたつき 種村肩衝

漢作唐物肩衝茶入。
大名物。
別名「木下肩衝」「都帰り」。
「種村」(棚村ともいう)の名は近江の種村某が所持したからといわれ、「木下」もまた木下宮内少輔が所持したからです。
「都帰り」というのは、狩野探幽が所持していたとき明暦の大火が起こり、この茶人が焼滅したと思っていましたが、はからずも京都において京都所司代牧野佐渡守親成により見出され、親成が探幽の所持したものであることを知っていましたので、再び江戸へ返付されたことにより付けられた銘です。
伝来は種村某から佐久間不干斎・木下宮内少輔を経て、堺の町人に渡り、探幽がこれを求めて所持し、この間に前述の「都帰り」の逸話が生まれました。
その後松平不昧の有となり、同家蔵帳に列することとなりました。
茶入は肩衝としてはずんぐりした方で、口造りも手強く、安定感が強いです。
釉景は総体に艶高い飴色地に、青白い蛇蝎釉がむらむらとかかり、置形は二方より合わした蛇蝎釉が流れ下がって底近くで止まっています。
置形右側に雪輪のような釉抜けが二ヵ所みられます。
土は金気色で底は板起しとなっています。
『古今名物類聚』をはじめ諸名物記に記載されています。
【付属物】蓋―六 蓋箱書付松平不昧筆 仕覆―四、金剛金襴・折枝模様縞緞子・本能寺緞子・間道織留(図版右より) 仕覆箱-書付同筆 挽家 黒塗 内箱―白木、書付狩野探幽筆 藤重作四方盆
【伝来】 種村某―佐久間不干斎木下宮内少輔 狩野探幽 松平不昧
【寸法】 高さ:82 胴径:8.5

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