一休宗純 遺偈 いっきゅうそうじゅん ゆいげ

一休宗純 遺偈
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鶴田 純久の章 お話

重文。
大徳寺派の巨匠で、風狂をもって知られた一休宗純が、その示寂に際して書きのした遺偈である。「この南閻浮州すなわち世界には、わしの禅のわかるものは一人もおらん。よしんば虚堂智愚和尚が今ここに出現してきたとしても、半文銭ほどの役にもたたんわい。わしの禅をいかんともすることはできない」という意味。
禅の究極のところは親知らず子知らずであり、この父子不伝の場ばかりは、虚堂はもとより釈迦・達磨においても何の役にも立たない、というのが真の壮である。
一休はしばしば「虚堂七世の孫」と自称し、虚堂を特に崇拝していた。
「須弥畔」と書いてしまい、無造作に「南」の一字を書き足したところ、稚拙を具象化したような書風、まことに一休宗純その人を眼前にみるような想いがする。
一休宗純は後小松天皇の落胤として生まれ、幼少で出家し、天龍寺・建仁寺と移ったがその宗風に飽き足らず、関山慧玄の法孫の謙翁宗為につき、その寂後、大徳寺派の華叟宗曇について辛酸苦修し、その法を嗣いだ。
その後、京都・堺などの小庵を転々とし、文明六年(1474)勅命により大徳寺住持となった。
しかしすぐに辞し、真珠庵や山城薪の酬恩庵などに退居、文明十三年、88歳で示寂した。
彼は従来の出家的禁欲的・貴族的な禅に対して在家的・人間的・民衆的な禅を挙揚、自ら「狂雲」と号して風狂な所業をあえてし、禅界の腐敗堕落を諷した。
【寸法】全体一縦1一14.0 横51.0 本紙縦25.2 横37.8
【所蔵】大徳寺真珠庵

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