一山一寧 六祖の偈 いっさんいちねい ろくそのげ

一山一寧 六祖の偈
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鶴田 純久の章 お話

重文。
元より来朝して公武の帰依を受け、禅林の学問および文学(五山文学)の興隆に大きな影響を与えた一山一寧が、南宗禅の祖、六祖慧能の偈を書いたもの。
大鑑慧能は嶺南新州の百姓であったが、縁あって五祖大満弘忍に入門、わずか八ヶ月余りで大事了畢し嗣法者たる資格を得てしまった。
そこで五祖は会下の門弟に「自らの悟境を一喝として呈せよ。わが意にかなえば嗣法させよう」と告げ、首座の神秀が「身は是れ菩提樹心は明鏡台の如し 時々に勤めて払拭し 塵埃を惹かしむること勿れ」という偈を呈したが、不十分とされた。
慧能の呈したのは本幅の一喝で、一見、神秀の隅について逆をいったにすぎないようにみえるが、実はこれしゅそ じんしゅうこそ活禅の真髄であり、慧能は第六世の仏祖となった。
一見、無造作とみえながらよく正念が一貫し、柔らかな筆致のうちに鋭い気迫が充実し、まことに滋味禅味豊かな一幅である。
一山一寧は台州の出で、臨済宗曹源派の頑極行弥の法嗣、癡絶道沖の法孫。
はじめ祖印寺に、次いで補陀寺に住していたとき元の成宗の命を受け朝貢を促す使節として来朝、一時蝶者と疑われ伊豆の修禅寺に流されたが、疑い解けて建長寺の住持に迎えられ、次いで円覚寺・浄智寺に住し、後宇多院の勅請を受けて南禅寺第三世住寺となり、文保元年(1317) 71歳で示寂。
雪村友梅・虎関師錬なども彼の感化を受け、また若き日の夢窓疎石もその薫陶を受けている。
【寸法】全体―縦159.0 横31.2 本紙 縦87.7 横31.2 本紙縦87.7 横30.0

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