竺仙梵僊 偈頌 じくせんぼんせん げじゅ

竺仙梵僊 偈頌
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鶴田 純久の章 お話

重文。
鎌倉末期に元から渡来し、日本における禅風の振興に大きな貢献をした竺仙梵が、明叟斉哲が真如寺の住持に就任するのを祝賀し、安国寺住持無徳至孝の韻に次いでつくった偈頌である。
真如寺は弘安八年(1286)に創建された尼寺で、当初は万年山正脈庵と称したが、のち高師直が夢窓楚石の勧めで庵を修築したのを機に、寺号を真如寺と改めた。京都衣笠にある。
竺仙梵僊は慶元府象山県の人で、別号を来々禅子といい、幼少で寺に入り18歳で剃髪、晦機元熙・東嶼徳海らに参じたのち古林清茂に参じてその法を嗣ぎ、径山万寿寺の首座の役位についていたが、元徳元年(1329)明極楚俊とともに来朝、北条高時に迎えられて鎌倉の浄妙寺、次いで浄智寺に住し、大友貞宗の帰依を受けて相模三浦の無量寺の開山に請ぜられた。
のち南禅寺に住持し、真如寺に遷り、さらに建長寺に遷り住し、貞和四年(1347)57歳で示寂。彼は文雅の誉れ高く、偈頌文章を能くし、書蹟また風韻高く、語録のほか『禅居集』『天柱集』などの著述をのこし、のちに五山の学芸の興隆する基礎を築いた。
無徳至孝は越前の出で、無為昭元の法を嗣ぎ、竺仙が南禅寺住持のとき彼を助けて首座の役を勤め、のち安国寺・東福寺・南禅寺に住し、貞治二年(1363)80歳で示寂。
明叟斉哲は元に渡り中峰明本に参じてその法を嗣ぎ、帰朝後、甲斐の慧林寺、京都の等持寺に住し、竺仙に親近していた。
貞和三年寂。
【寸法】本紙縦29.0 横81.0
【所蔵】大通院

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