重文。
元代の名僧の一人、竺田悟心が、日本僧徳蔵主の請いに応じて書き与えた送別の偈。
四言四句・七言四句・五言二句・六言二句・七言二句かなるという特殊な詩形をとっており、すこぶる難解である。
冒頭『碧巌録』第四十五にも採録されている有名な「趙州万法帰一」の則を引いて頌じており、前段八句は、趙州の肚がわかりその境涯がわがものになれば、清風匝地、行くとして可ならざるはなしで、脱酒自在を得ることをうたったもの。
「家は海門の東に在り」以下の六句は、徳蔵主に対して送別の意を表するとともに、帰国後の心構えを説いたものと思われる。しかも竺田は、こう説いたことさえもすでにいらざることだとして、最後に「咄」とこれを破砕してこのを結んでいる。
このが書かれた至順四年は改元し元統元年となった1333年で、わが国では鎌倉幕府の滅亡した元弘三年にあたり、時に竺田は北山景徳霊隠禅寺の住持であった。
竺田悟心は破庵祖先の法孫愚極智慧の法嗣で、清拙正澄・樵隠悟・龍巌徳真と同のぼ門。
『増集続伝燈録』巻五に「初め南康の天寧に住し、廬山の羅漢に遷り、栖賢に転じ、円通に至り、後に霊隠に升る」とみえる。
徳蔵主が何人であるかは未詳。
竺田の墨蹟としては他に「正堂士顕道号頌」「中巌円月送別偈」などが伝存するが、その書風はいずれも趙子昂流の暢達雅潤なものである。
【付属物】箱―書付小堀遠州筆 添状―三、船越伊予守・片桐石州・清巌宗渭筆
【寸法】本紙縦34.〇 横62.0