雪村友梅 梅花の頌 せっそんゆうばい ばいかのじゅ

雪村友梅 梅花の頌
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鶴田 純久の章 お話

重文。
鎌倉末期から南北朝時代の初期に出て、五山文学の興隆に先駆者的役割を果たした雪村友梅が、雪中に凛然と咲く梅花を詠じた自らの詩を蠟箋に揮毫したもの。
林道(和靖)の有名な「山園小梅」の詩の中の「疎影横斜水清浅、暗香浮動 月黄昏」の二句と、「梅花漏泄す 西来の意」という禅語とを踏まえた頌で、早春の田園の風景が眼前に髣髴としてくる詩である。
雪村の遺墨は意外に少なく貴重な一幅である。
雪村友梅は越後の白鳥郷に生まれ、幼少で鎌倉に上り建長寺の一山一寧の侍童となり、18歳で元に渡り、趙子昂ら廟堂の士大夫・文化人の間に重んぜられ、次いで禅の修行に入り元叟行端・虚谷希陵・東嶼徳海・晦機元熙らに参じ、蔵司の役位についていたが、日元関係が悪化、禁獄され拷問にあい、危く斬首は免れたが長安・成都に流されとどまること十数年、大赦にあって長安に戻り微寺の住持に迎えられ、元の朝廷から宝覚真空禅師の号を特賜された。
元徳元年(1329)、明極楚俊・竺仙梵僊らと同船で博多に帰着、一時建長寺の玉雲庵に寓していたが、信濃の慈雲寺・徳雲寺、京都の西禅寺、豊後の万寿寺などに住し、赤松円心の創始した播磨の金華山法雲寺の開山に請ぜられ、のち万寿寺・建仁寺の住持となり、貞和二年(1346)57歳で示寂。
彼は元の新傾向の文学や思潮を日本にもち帰り、五山文みんが学興隆の地盤を培った。
著述に 『岷峨集』 『宝覚真空禅師語録』がある。
【寸法】本紙―縦99.0 横34.4
【所蔵】北方文化博物館

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