拙庵徳光 偈頌 せったんとくこう げじゅ

拙庵徳光 偈頌
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鶴田 純久の章 お話

重文。
大慧宗果の法嗣で一代の名僧とうたわれた拙庵徳光(仏照禅師)が正瑛という僧に書き与えた偈頌の一幅で、世に「金渡の墨蹟」として名高い拙庵徳光は、大慧宗果が育王山広利禅寺に住していたときにその会下に参じ、ついにその法を嗣ぎ、南宋の孝宗帝の信任を得、北山景徳霊隠禅寺育王山広利禅寺・径山興聖万寿禅寺に相ついで住し、嘉泰三年(1203)83歳で示寂。
この墨蹟は正瑛という僧が頌を求めたのに応じて書かれたものであるが、正瑛という人物については不明。
内容からみて、見性以前の若い雲水と思われる。
その内容は、静中の工夫はもとより動中の工夫に骨折るべしと、正しい修行の仕方を示したもの。
「金渡の墨蹟」と呼ばれるのは、『平家物語』巻三の「金渡」の段にみられる伝承と関連においてであり、平重盛が鎮西の貿易商人妙典に金三千両を託し、育王山広利禅寺に寄進したところ、返礼としてこの墨蹟が仏照禅師から送られてきたというのが伝承の大筋。
しかし偈の意味内容や形式からみて、庵徳光の返礼の書とはとうてい考えられない。
本物の返礼の書がもとあったのであろうが、なくなってしまったので、墨蹟尊重の風の高まった後世になって、たまたまのこっていた拙庵のこの偈の一軸を「金渡の墨蹟」と称したのであろう。
【付属物】軸書付周乗筆
【伝来】崇禅寺 細川幽斎―徳川幕府―細川三斎―細川綱利―徳川幕府―藤原暁雲
【寸法】全体縦112.0 横57.5 本紙縦28.6 横46.3

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