国宝。
南宋初期の禅林を代表する巨匠大慧宗杲が、梅州の謫居から会下の無相居士に送った尺牘(書翰)で、配所における苦労多い生活と、彼の豊かな人間味との察せられる墨蹟である。
急いで書いたものだけに、その文章にも書風にも少しの気取りもなく、心情がよく偲ばれる。
大慧宗果は宣州の人で、12歳で出家、はじめ曹洞禅を修したがのちに臨済禅に転じ、圜悟克勤に参じてその法を嗣いだ。
虎丘紹隆とは同門である。
彼が曹洞宗を暗照黙照の邪禅として痛烈に排撃し、いよいよ看話の禅風を起こし、しか他方、師の苦心の結晶である『碧巌録』を禅の修行に害があるとして焼いたことは有名である。
諸寺に住したのち五山第一の径山興聖万寿禅寺の住持となったが、その禅風を慕って集まる者二千余人という盛況を呈し、その会下には政府の要人や学者・文人も多かった。
南宋の宰相秦檜が金の圧力に屈してこれと和議を結ぶと、その政策を非難し抗戦すべしという主戦論が湧き起こり、これに対し秦檜の大弾圧が加えられるが、主戦論者に大慧の会下の居士が多かったところから、大慧もその一味と目されて僧籍を剥奪のうえ衡州に流され、さらに梅州へ移され、十六年間の謫居生活を送った。
秦檜の没後、高宗皇帝の大赦で僧籍に復し、育王山広利禅寺の住持となり、さらに山にも再住、隆興元年(1163)75歳で示寂。
調居中に『正法眼蔵』『宗門武庫』を著わしている。
【伝来】江月宗玩
【寸法】本紙―縦38.0 横65.5
【所蔵】東京国立博物館