密庵咸傑 法語 みったんかんけつ ほうご

密庵咸傑 法語
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鶴田 純久の章 お話

国宝。
「密庵の破沙盆」の公案で名高い密庵成傑が、璋禅人の請いに応じ書き与えた法語で、密庵の墨蹟で伝存する唯一のものであり、法系上における密庵の地位の重要さと相まって、古来、最も尊重されてきた。
梅花文の文綾という絹地に書かれたもので、その書風はまことに枯淡で円熟の境を示している。
内容は三段に分かれ、第一段では、「大丈夫の志気」をもつことが、禅門の修行において最も肝心であることと、歴代の祖師は、ときには世間の常識では測れない遊戯三昧の働きを行ずるが、これは権道を行じた越格の働きで、何人もそれを批判できないことを説き、第二段は、その実例として音化と盤山二尊宿の越格の行状をあげ、第三段でこの法語を書くに至った縁由を述べている。
密庵は福州の出で、幼少で出家して禅に帰し、師応庵曇華が「如何なるか是れ正法眼」と問うたのに対し、「破沙盆」 (ぶっかけどんぶり)と応じて印可を受け、法を嗣いだ。
法の上において圜悟克勤の曽孫、虎丘紹隆の孫にあたる。
甲刹第一の華蔵・十刹第三の蔣山太平興国禅寺などに歴住し、五山第一の径山興聖万寿禅寺・第二の北山景徳霊禅寺などの住持、晩年第三の太白山天童景徳禅寺に住し、南宋の淳熙十三年(1186)80歳で遷化。
宋代禅界の大立物であった。
璋禅人の伝記は未詳。
大徳寺龍光院には、特にこの幅だけを掛けるための世にいう密庵床が設置。
【付属物】消息 千利休より山上宗二あて
【寸法】本紙―縦27.5 横102.0
【所蔵】大徳寺龍光院

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