鍋島焼とは

鍋島焼とは

鍋島焼の主体をなすのは、大河内藩窯で焼造された木盃形と呼ばれる大小四種の同一形式の皿で、一般に尺皿、七寸皿、五寸皿、三寸皿と呼ばれているものである。そのほとんどが円形で、やや高い高台がついている。大小の差はあるが、器形が極めて単純画一的であるため、変化に富んだ作為を好む人にとっては、あまり面白みのある器ではあるまい。
たしかに桃山時代の茶陶とはまったく異質のやきものである。このように統一された規格の木盃形の皿が盛んに焼かれるようになったのは延宝三年(1675)以後で、元禄頃が最盛期であったと推測されるが、桃山風のざんぐりとした絵唐津の皿や鉢、向付が、同じ肥前の窯場で盛んに焼かれていたのが、これより七、八十年前の慶長、元和の頃であったことを思うと、質はもちろん、そこに示された美意識の大きな変化は、同じ土地でのでき事とは思えないほどであり、時間というものがもたらす魔術を今さらのように感じるのは、私だけではあるまい。
 延宝から享保頃にいたるおよそ五十年間が大河内藩窯の盛期であったが、その間の作品と思われるもの数百点を集中して調査した後、私の鍋島焼に対する認識は一変した。過去に代表的な作品はかなり見ていたし、たしかに技術的完成度の高さは日本の色絵磁器中第一のものということはわかっていたつもりであったが、そこに示された技術の練度の高さは柿右衛門焼をはるかに凌ぎ、最上質のものは康煕、雍正の官窯に比肩しうるものであると言っても過言ではない。大清帝国の官窯と、日本列島の一藩主の御用窯とでは、比較の対象になりえぬ規模であろうが、事実は鍋島藩窯が康煕,雍正の官窯精磁よりも早く、しかも見事な色絵磁器を完成させていたのであった。しかもそれは日本最初の染付磁器の創始から僅かに六、七十年で到達したのであり、この驚目の現象は、他のいかなる国の陶芸史にも例をみないのではないだろうか。そしてこのような現象が成立したのは、幕藩体制下における藩権力の凄まじさを物語るものであり、有田皿山代官の統制下にあった民窯から、練達の工人を抜擢して準藩士として遇し、胎土、nil薬、絵具にいたるまで特別調製することによってなしえたのである。その間の消息を物語る、大河内藩窯に関する唯一といえる興味深い文献資料が伝わっている。それは元禄六年(1693)に藩から有田の皿山代官に出された指令書であるが、当時の藩窯の実情がよくうかがわれ、藩窯の体質を知るうえで、多くを語るよりも読者の得るところ大と思われるので全文を紹介してみよう。
「有田皿山代官へ相渡手頭」より
 一、献上並都合大河内焼物方一通の儀其方へ申付候。時々年寄共進物役の者より相達す べく候條、精々入念に能く心遺ふ事肝要に候。尤も粗略の儀は申すに及ばず、時期 を違へず萬事遅滞無きやう相調ふべき事。  附、役者の内、請役より怠業の気味ある者の儀は、見聞の上時々頭人へ申聞次第  其役被免すべく候、尤も落度有之者の儀は其旨申出べき事。
 一, 焼物近年は焼方悪く都合出来ざる由、就中献上物又は差立ちたる者有候處、以前に 打愛り悪く有之候へば申付様お片のやうに其沙汰も候ては宣しからざる事に候條。 向後の儀精々入念に出来上り候やう相調ふべき旨、目付の者より副田杢兵衛、副田 喜左衛門へ委細申聞かせられ度候、此の上若し不心掛、又は紛れたる儀有之て、焼 物出来ざる段出頴の節は其科申付可き事。
 一、都合焼物出来候儀、之又近年は不成績の由、第一、間に合はず緩かせのやう相成候 儀、以ての外宜しからず候。此の段は畢竟杢兵衛、喜佐衛門の心掛次第に依る可き 事に候。第一目付就中立入登見次第時々申出候様に堅く申聞かせられ度候、勿論目 付見聞の通り用捨致し申出でざる後も願はれ候はゞ、糺明を遂げ、曲事申付く可く 候間、兼て其党悟仕り候様, 巌敷く申聞かする事。
 一、献上の陶器毎歳同じものにて珍しからず候條、向後脇山へ出来候品時々見合せ、珍 しき模様の物有之節は、書付を取られ、其方へ差出す可旨、年寄共並進物役の者へ 申し談じ、焼立候やう申付置く可き事。  附、焼方出来候儀都合能く吟味し、富世に逢ふやう仕立申可き事。
 一、献上陶器の品、脇山にて焼立、商費物に出し候ては以ての外宜しからざる事に候 條、脇山の諸細工人大河内本細工所に濫に出入致さゞる様申付け置く可き事。
 一、献上残物は勿論、例の焼損じの品と雖も狼に取去る事出来ず候、年寄共並に進物役 の者へ申談じの上、時々割捨て申可き事。
 一、脇山へ上手の細工人有之節は本細工所へ相詰めさすべき事。  附、前々より詰来り候者にても下手の細工人は本細工所へ差置く間敷事。
 右の條々其意を能く役々の者共へ具に申聞かせ、向後其旨守候様堅く申付可く候、若し狼りの儀有之候はら其段申出づ可く候、其方申付緩かせの儀も有之候はち其科申出
 づ可く候。
元禄六年酉八月十二日
有田皿山代官
(『鍋島藩窯の研究』より)

 以上のように、こと細かな指令を発し、作業は副田杢兵衛、副田喜左衛門の指導のもとに行なわれたのであるが、なかに「献上品の残りものや、焼損じ物を狼りに持ち出してはいけない。年寄や進物役の者に申し出て、時々割り捨てる事」と命じているが、それは製品がいかに厳しい統制下に置かれ、他の模倣を極度に警戒していたかを物語っている。また「近年の作品は以前に打って変わって悪い」と注意しているが、これから推測すれば、元禄六年以前に、すでに極めて優れた作品が焼造されていたように思われるのである。
 ところで鍋島内庫所の旧記によると、鍋島藩窯は、寛永五年(1628)に有田の岩谷川内に設けられたと伝えられている。寛永五年といえば、有田の染付磁器が創始期を脱しつつあった頃と思われるが、旧記によると、窯の経営は後に代々鍋島藩窯主任となる副田家の家祖喜左衛門日清が当っているので、やはり御用品を特別焼造させるのが目的であったのであろう。この岩谷川内の藩窯趾と推測される窯趾を発掘した水町和三郎氏は「該窯趾より出土する残欠は朝鮮李朝系の染付粗磁器であるが、此の夥しい残欠の内に混ってやや薄造りの有職調模様のものが若干発見される。日清苦心の御用品は恐らく此の手ではないかと思はれる」と推測し、また青磁もすでに焼かれていたが未完成でさほど上質のものではなかったらしい。いずれにしても、この時期は藩窯の製品として著しい特色を示したものはなく、有田の他の窯と大差なく、今日初期伊万里染付と呼ばれている作品群と同様のものが大半であったように思われる。
 この岩谷川内の御道具山主任初代副田喜左衛門日清は承応三年(1654)に歿し、二代喜左衛門清貞が事業を継承したが、寛文年間にいたって御用窯を南川原山に移している。南川原山は柿右衛門の窯のあったところで、寛文年間といえば、柿右衛門の赤絵はすでに盛んな時期であった。水町和三郎氏の調査によると、藩窯は柿右衛門の窯に隣接していたと推定されている。とすれば、ここに窯を移築した目的は、藩窯でも色絵の製作を意図し、柿右衛門窯の色絵技術の利用を図ってなされたものと考えられる。
 南川原の藩窯は、寛文年間の初め頃から延宝三年大河内山に移築するまでの十数年であるが、この間の作品も、岩谷川内と同じく判然としない。しかし、水町氏は古窯趾から、大河内時代の先駆をなす形式をもつかなり上質の残欠を僅かではあるが採集しており、おそらく藩窯の基礎は、この間に技術的にも形式的にもほぼ固まっにものと思われ、いわゆる古鍋島調のものの多くはここで焼かれたのではないかと考えられる。そして、いよいよ延宝三年に大河内山に移り、藩窯は第三期といえる完成期を迎え、前述のような状況のもとに、清朝官窯にさきがけて見事な色絵磁器を焼造するにいたったのであった。また『鍋島藩窯の研究』では、岩谷川内から南川原時代までを前期鍋島、延宝から元禄・享保、さらに寛政頃までを盛期鍋島、文化以降幕末までを後期鍋島として、作風の変遷を概観しているが、藩の経済状況などから推して、享保年間を過ぎる頃から藩窯の作品は加速度的に作風を低下させていったように考えられるのである。
 鍋島藩窯の主体をなす盛期鍋島焼は、初めにも述べたように、厳重な統制のもとに生産され、作風も規格厳重で、十七世紀の後半から十八世紀前半にかけて焼造された他の代表的な色絵磁器、すなわち柿右衛門様式、伊万里様式、古九谷様式の作品群と比べて、際立って異なった特色をもっている。なによりも器形が極めて画一的な規格によって限定され、他の作品のように自由なものではない。むしろ器形を統一するという態度に藩窯としての誇りと個性を示しているかのようである。しかし、そのような規格の厳重さは、今日私たちが一個の作品として鑑賞しそこに芸術性を汲みとろうとする場合、異論の起る要素ともなっている。藩窯としての個性は確立されているが、一個の作品としては没個性的だからである。藩が示した指令書にも高水準の技術的精度を求めているが、個性的な作為を示すことはまったく要求していない。江戸時代における藩体制の性格が、そのまま藩窯の経営にうかがわれるのである。
 とはいうものの作品の意匠は、他のどの色絵磁器よりも多種多様で、しかも従来一般に指摘されているように、鍋島藩窯の意匠家たちが考えおよぶ限りのすべてのパターンに一中国的な発想の意匠においても一純日本的な様式を示そうとしているのは大きな特色であり、まことに興味深い。しかもそれを表現する技術的水準は、他の色絵磁器に比して極めて高い。染付の線描、濃(澄)染、さらに特種な染付技術である墨はじき、瑠璃染など、おそらく染付の技術としては、世界のどの窯よりも優れた技術を持っていたのではないだろうか。したがって、従来あまり注目されていないが、染付の作品にも格調の高いものが多い。だが鍋島焼を代表するものは、やはり染付下地の上に上絵付をしたいわゆる色絵磁器-わが国の古風な表現にしたがえば染錦手-である。白磁の素地が上質であるため色絵具の発色はやや薄く、気品を第一にして色と色とのハーモ二-を考慮している。その配色は一見して鍋島様といえるもので、他の色絵磁器にはないものである。
 絵文様の種類は、染付ものも加えれば五百種を数えることができるのではないかと思われるが、色絵ものには寛文から元禄、享保にかけて浪花(大阪)や江戸(東京)で刊行された各種の絵手本、雛形、模様本を参考にしているものが多いのが特色である。したがって寛文から元禄頃の小袖などと共通した意匠がしばしば見られるのである。絵文様の構成にあたって模様本を参考にしているため、全体的に絵画的な風韻の高い意匠は少ない。作行きは精緻ではあるが、古九谷様式の一部の作品にうかがわれるような芸術性に乏しいのが、鍋島焼の最大の弱点といえるのではないだろうか。

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