大名物。漢作肩衝茶入。
永平寺の開山道元禅師(久我大納言通親の子)が瀬戸の陶祖藤四郎(加藤景正)を伴って入唐し、安貞年間(1227-9)帰朝した際この茶入をもたらして久我大納言家に贈ったものです。
口造りの捻り返しは浅く、総体に飴色釉の中に黄色の小点が星のようにぼつぽっと散乱し、置形は共色釉で一つは肩先から、もう一つは胴中から流れ合ってついに一筋となって底縁に掛かり、その底に面した釉溜まり中に少し青瑠璃色があります。
胴をめぐる沈筋一線は一部とぎれた所があります。
裾以下に鼠色土をみせ、底は板起こしで擦り減っていて、また全体のところどころに手摺れがあって自らその時代の古いことを現わしています。
口内は甑一面に釉が掛かり、また一筋なだれて底の辺に達するものがあるようで、底面にも一部釉が掛かり、またカセだ所もあります。
道元禅師が藤四郎と共に中国において幾多の茶入中から選抜してきたものと思われ、形状・釉色ともに雅美で漢作茶入中有数の逸品と見受けられます。
久我大納言家のあと、宗三彦右衛門、京都の針屋紹珍、織田信長を経て豊後国(大分県)の宗況(宗悦ともある)に伝わり、宗況がこれを豊臣秀吉に献じました。
大阪落城ののちは尾張徳川侯のものとなり、次いで同家から幕府に献上され、1697年(元禄一〇)3月11日将軍綱吉がこれを大和国(奈良県)郡山城主柳沢出羽守吉保に賜わって長い間同家に伝来したが、維新後伏見の豪商某、小浜の士族某を経て松浦家のものとなりました。
(『東山御物内別帳』『津田宗及茶湯日記』『山上宗二記』『茶器名物集』『名物帳』『御物御道具記』『瀬戸陶器濫脳』『古今名物類聚』『古名物記』『麟鳳亀龍』『万宝全書』『大正名器鑑』)