重文。
蘭溪道隆と無学祖元との中間に来朝し、鎌倉の禅風振興にあずかって力のあった大休正念が、円覚寺に住していた時期に何人かに送った書翰である。
無学祖元の示寂を痛惜し禅門の寂寥を案じたもので、それにともなう自らの孤愁をひしひしと言外に漂わせている。
それらの点からみて、年の記載はないが、無学の示寂から十三日目の弘安九年(1286)九月十五日に書かれたものと思われる。
この書翰のあて先の僧が誰であるかはわからない。
大体の受け取った書翰は、無学の示寂を悼み、大休を慰問するためによこしたものではなかろうか。
時に大休72歳、その書風は一段と枯淡さを増しているが、さすがは千鍛百錬した巨匠の筆、捉われない自ようか由さと撥剌とした生気が感ぜられる。
大休正念は温州永嘉郡に生まれ、幼少で出家し、はじめ景徳霊隠寺で東谷光に参じたが、のちに径山に住していた松源派の石溪心月に参じてその法を嗣ぎ、文永六年(1269)来朝した。
同派の建長寺住持蘭溪道隆に迎えられて鎌倉に下り、北条時宗の帰依を受け、建長寺・寿福寺に住し、浄智寺の勧請開山となり、次いで円覚寺に移り、のち蔵六庵を創建して退居していたが、正応二年(1289)75歳で示寂し、仏源禅師と諡された。
その法嗣に嶮崖巧安がある。
大休の墨蹟としては他に「題無象静照遊天台石橋詩集」(五島美術館蔵)、「泰定居士に与えた法語」(蔵六庵蔵)がある。
【付属物】点字―沢庵宗彭
【寸法】本紙―縦35.3 横100.0
【所蔵】東京国立博物館