重文。
南宋禅界の重鎮であった癡絶道沖が、無準師範の忌辰における自らの上堂の語を、源蔵主という僧の求めに応じて書き与えたもので、示寂の三ヵ月前の筆である。
径山前住の無準の大自在の境涯と、多くの法嗣を打出して仏祖の命を進展させた働きとを、いわゆる拈弄の体裁で逆説的にたたえたもので、文字の表面からはその真意は汲み取りにくい。
その書風はまことに強勁かつ鋭利で、いささかの衰えも弛緩もなく、示寂三ヵ月前に書かれたものとは思えない。
千鍛百錬したその嶮峻な禅風にじかに触れる想いがする。
なお無準師範は淳祐九年(1249)三月十八日に示寂しており、この墨蹟は一周忌に先立つ同十年二月二十五日に書かれているところから、無準示寂のときの上堂の語を、翌年改めて書いたものと考えるほかはない。
癡絶道沖は、一度は官吏になろうとして進士の試験を受けたが落第し、志を変えて密庵咸傑の法嗣の曹源道生に参じてついにその法を嗣いだ。
そして嘉興の天寧に住し、次いで五山第三の太白山天童景徳禅寺の住持となり、第五の育王山広利禅寺の住持を兼摂、いくばくもなく無準の跡を受けて五山第一の径山興聖万寿禅寺の住持となり、淳祐十年(1250)五月十五日、82歳をもって示寂した。
源蔵主のことは未詳。
なお癡絶の墨蹟としては、「大慧墨蹟跋」(東京国立博物館蔵)・「偈頌」(五島美術館蔵)などが伝存。
【伝来】片桐石州―松平不昧
【寸法】全体―縦108.0 横47.6 本紙 縦27.7 横45.3