重文。
元代禅界の大立物であった南楚師説が、日本僧鉄舟徳済の帰国に際して彼に与えた送別の語である。
いかにも南楚が鉄舟のために特に作成した法語のようにみえるが、跋文に「強いて前語を筆す」とあるように、送別の語を求められた南楚が、「鉄舟」の句を含んだ旧作の法語を想起してこれを書き与えたものと考えられる。
したがって、この法語を鉄舟の道眼明白・道力絶大をたたえたものと解釈するのは間違いで、大修行底の禅者の境涯とその働き、いわば禅者の理想像を述べたものである。
なお跋文に、鉄舟の道念が淳く確かで、虎巌浄伏のもとで侍者を勤め、南楚の会むくりん下で蔵主(文庫主任)の役にあり、茂古林のいた保寧寺で第一座 (禅堂の責任者)を勤めたなかなかすばらしい人物だとほめている。
南楚師説は南昌の人で、臨済宗松原派の虎巌浄伏の法を嗣ぎ、廬山の開先寺、中呉の承天に住し、のち五山第一の径山興聖万寿禅寺に住した元代有数の禅僧である。
鉄舟徳済は下野の出で、はじめ無極志玄に師事したが元に渡り、約二十年の間に虎巌・南楚・茂古林らの下で修行、帰国後、阿波国宝陀寺の開山となり、のち法を夢窓疎石に嗣ぎ万寿寺に住したが、間もなく天龍寺のむそう そせき龍光院に退き、正平二十一年(1366) 示寂した。
彼は詩文にも長じ『閻浮集』をのこしている。
【伝来】蒲生氏郷―木下大和守 大徳寺正受庵土方河内守江戸麻布天真寺 松平不昧
【寸法】全体 縦116.0 横90.0 本紙縦33.0 横88.4
【所蔵】畠山記念館