焼成時における熔融状態から冷却する間に釉成分の一部が結晶析出した釉。
その結晶形が極めて小さい時は茶金石釉(アヴェンチュリン釉)あるいは艶消釉(マ。
卜釉)となります。
結晶を析出した釉の存在のみに関していえば、わが国の昔の鉄砂を多量に用いた陶器・妬器釉にみられ極めて古いものですが、これらはいずれも結晶が不明瞭か微細かであって、結晶で斑紋を生じさせるような今日でいう結晶釉とはいい難いです。
結晶釉の行われるようになったのは極めて新しいことであります。
1850年頃エーベル。
メンが結晶釉の研究を始め、次いでロート、デュータイリーがこれを継続して1885年にその製品をフランスのゼーゲル磁器製造所の陳列館に出品しましたが、結晶釉はまだ広く行われなかりました。
1894年アメリカのシカゴ世界大博覧会に出品した結晶釉陶器は世間の注目するところとなり、翌1895年にはデンマークのコペンハーゲンでその製造が行われ、次いでドイツのベルリン、フランスのセーブルでも製出されるようになりました。
わが国では1897年(明治三〇)の頃瀬戸の加藤五助か偶然マンガン結晶釉を発見し、これを加藤繁十に伝えました。
繁十と品野の香山はその製出に努め、その後この方法は京都の井上延年を経て瀬戸の加藤半助に伝わりました。
この瀬戸の結晶釉は暗褐色か帯褐緑色の地に白斑を出したマンガン結晶釉でありました。
1899年(同三二)金沢工業学校の北村弥一郎はマンガン白色結晶、結晶着色、斑紋の大小・粗密・形状の変化に関する研究を行い、各種結晶釉の製出に成功しました。
またこの頃築瀬真寿は会津砥石を用いる釉において亜鉛が結晶の原因となることを説き、明治末期山口県豊浦郡小月村(下関市小月町)の藤崎星里は星里焼といって亜鉛結晶を製出しました。
大正末期より昭和初期にかけて東京工業大学の近藤清治は鉄・亜鉛・マンガン・チタンの各種結晶釉を研究して幾多の優良結晶釉を示しました。
その後チタン結晶釉は広く行われています。
結晶釉 けっしょうゆう
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