唐津茶碗

唐津茶碗 銘 ねのこ餅

高さ:10.5cm
口径:9.2~9.6cm
高台外径:5.4cm
同高さ:0.5cm

 ねのこ(子の子)餅というのは、『源氏物語』の中にただ一度出てくる、ある特殊の意味をもつ呼称であって、その実体は亥の子餅です。いのこ餅は、陰暦十月初の亥の日に、無病息災、あるいは子孫繁栄を祝って食べる餅で、『源氏物語』葵の巻に、源氏か石紫に亥の子餅をすすめる、情緒こまやかな一こまがあり、ちょうどその日が、亥の日の翌日に当でしたので、これを「子のこ」としゃれて呼んだのです。
 この茶碗に、特にねのこ餅の銘をつけたのは、『源氏物語』によく通じていた細川三斎で、その銘の由来は、もと利休所持の筒茶碗に、狂言袴、引木の鞘、それにこの唐津筒の三名碗があり、その三つのうちの一つというのを、くだんの物語の中に、ねのこ餅の数について「三つが一つにてもあらむかし」とあるのにひっかけて、名づけたものと考えられます。また「餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調べたり」とあるのと、この筒茶碗の外形が轆轤(ろくろ)目整然として、餅を重ねたように見えるのを。、考え合わせてのことかもしれません。
 さてこの茶碗は、伝世唐津としては珍しく深めの筒形、無地の大ぶりで、総体、簡明直截、素朴な形りであるが、さすがに古様で、ゆったりとした気宇の大きさが感じられ、利休好みの茶碗として軽視できぬ姿です。
 素地は、唐津特有の鉄分を含んだ粗めの土。高台裏で、赤ぐざらりと乾いた感じの土膚を見せています。無造作に削り出された高台は、いくぶん片薄になっていて、いかにも野趣の横溢した作ゆきです。腰はなだらかにまるく、胴から口辺への立ちあがりは、のびのびとした轆轤(ろくろ)で。、まっすぐにひきあげられています。口縁のあたり、ほんのわずかに広がりがあり、それがこの茶碗を大きく見せているようです。そして釉下には、軽快な轆轤(ろくろ)の筋めが、規則正しく走っているのが透けて見えます。外見は、すんなりとした単純な形ですが、骨組みは太く、雄健の気が内にこめられていて、やはり非凡というほかはありません。
 釉薬は、かすかに青みをおびた半透明の白釉が、高台ぎわまで、ずぶりとかけられ、素地の鉄分の作用でしょうか、釉面にはほんのりと赤みがさして、いわゆる枇杷色になっているところもあり、釉層の薄いところでは、それがいくぶん濃くなっています。それに細かい貫入が全面に隠見してどこか奥高麗に似た釉調です。釉面は必ずしも平滑ではありません。
 腰には、釉かけの際の大きな指あとが残っていますし、轆轤(ろくろ)の筋めの上には、無数の小穴が横に連なって、何段もの層になっています。また、ところどころに、小さな釉はげの斑点が、あばたのようになって散っています。
 伝来は、まず利休所持というのが、唐津ではまれな例でしょう。細川三斎がこれに箱書きを残しているのは、そのころ三斎の所有になったのでしょうか。その後、高木玄斎の所有となり、それより閑事庵宗信(坂本周斎)へ、明和六年には今井源之丞より諏訪信当に譲られています。そして、さらに鴻池家に入り、現在は関西某家の有になっています。内箱蓋表の書き付け「子のこの餅」は細川三斎。中箱蓋表の書ぎ付け「ねの子」は船越伊予守、同蓋裏の貼り紙は藤原三友です。また外箱の書き付けは、表裏とも、諏訪信当。さらに総箱の蓋裏には、閑事庵宗信の貼り紙があり、この蓋表には「中興名物鴻池家伝来」とありますが、もしこれを信ずれば、遠州所持の伝来も加わることになります。
(藤岡了一)

唐津 奥高麗筒茶碗 銘 ねのこ餅

高さ10.4㎝
ロ径9.5㎝
高台径5.5㎝
 奥高麗といえぱ、これまで見てきた諸例のように、丸い椀形の茶碗に限られます。
だからこの筒茶碗は、「古唐津」といわれても、「奥高麗」として扱われたことはかつてなかったことであります。
しかし形は違っても、土.釉、そして高麗風の作りという諸点から見て、明らかに「深山路」や「真蔵院」などと類を同じくするもので、やはり奥高麗の一異形と見なすのが妥当であるでしょう。
しかも利休所持にかかる三筒茶碗の一つと所伝されることは、他の二つ、すなわち高麗茶碗の狂言袴手の「挽木鞘」ならびに古雲鶴「浪花筒」などと同格の扱いを受けていたわけで、とりもなおさず高麗風をよく備えたものと認識されていたことを示す、1591年に歿した利休の所持という時期の古さとともに、むしろ奥高麗の古典とすべき作品であるでしょう。
作意のないごく自然な作りであることが、沈んだ赤い土や枇杷色の釉膚とあいまって、静かな茶味をたたえています。

 元禄の頃、遠州流の茶人であり、大の目利きとして知られた京都の糸屋良斎(了斎とも書く)所持であったことから、糸屋唐津と呼ばれています。いわゆる奥高麗手の作行きですが、「是閑」や「中尾唐津」が枇杷色の釉膚に焼き上がっているのに対して、この茶碗は青みをおびた釉膚に焼き上がっています。轆轤は緩やかな曲面を保ちながら胴の上部で一段くびれて口にいたり、口作りは少し端反り気味になっています。底から腰にかけてはかなり厚手で、口径に比して小さく引き締まった高台がくっきりと竹節状に削り出され、畳付は片薄に、高台内中央に兜巾が削り出されています。高台回りの土膚はねっとりとして一部赤くこげています。釉膚は大小の染が雨漏りのようにあらわれ、詫びた景色を出しています。
 糸屋良斎の後、京都の福井家に伝来したものと 利休所持と伝えられ、総箱蓋裏に「利休居士 筒三之内 所持狂言袴槐木 ねのこ餅」と閑事庵宗信が書付していますので、古来利休所持三筒と称されている名碗です。また、内箱箱表に細川三斎が「子のこの餅」の銘を書きつけていますが、その「子のこの餅」とは『源氏物語』のなかにただ一度出てくる特殊な意味をもった呼称です。かつて貴族社会の習慣に、陰暦十月初めの亥の日に、無病息災、あるいは子孫繁栄を祝って餅を食べる行事があり、それを亥の子餅と呼びました。「子のこの餅」はそれに因む名称で、『源氏物語』の葵の巻に、源氏から紫に亥の子餅を勧める場面があり、その日が亥の日の翌日にあたっていたので「子のこ」と洒落て呼びました。そして文中に、その子のこ餅の数について「三つが一つにてもあらむかし」とあるのに因んで、利休所持三筒の一つであったこの茶碗の銘としたのです。古典に通じていた細川三斎ならではの命名といえましょう。
 ところで、天正十九年(1591)に歿した千利休がこの茶碗を所持していたことは、茶陶唐津の焼造年代を推定する上でかなり大きな意味をもっています。この筒茶碗は雑器ではなく、明らかに茶碗として作られています。とすれば、意識的に作られた茶碗がすでに天正後期に焼かれていたことになり、これと同様の釉のかかった奥高麗手の茶碗の多くも、天正末年以前に焼造されていたと考えられます。
 茶碗はやや厚手に素直に轆轤びきされ、その作振りは数多い唐津茶碗のなかでも古格を示すものです。しかも、姿はいかにも茶味があって味わい深く、枇杷色の釉膚も柔らかいです。無造作に削り出された高台は、いくぶん片薄になってざんぐりとした赤い土膚を見せ、腰には大きな指跡が残っています。
 利休から細川三斎、高木玄斎、閑事庵宗信(坂本周斎)、今井源之丞、諏訪信当、鴻池家などを転伝したものです。聞いています。