国宝。
臨済宗松源派の巨匠虚堂智愚が、日本僧無象静照の請いに応じて書き与えた述懐の偈で、「破れ虚堂」と称されて虚堂の墨蹟中でも最も有名なもの。
「破れ虚堂」と称されるのは、京都の富商茶人大文字屋がこれを所蔵していた当時、大文字屋に内輪もめが起こり、そのときに破られたためと伝えられる。
その書風は一見鈍く緩いように感ぜられるが、その底に強勁な機鋒がひそみ、清純な気合いが一貫しており、大禅者の風格がよく滲み出ている。
虚堂智愚は四明の象山に生まれ、16歳で出家し、のち法を運庵普巌に嗣ぎ、諸寺を歴任したのち、育王山広利禅寺・南山浄慈報恩禅寺・径山興聖万寿禅寺と五山の大寺の住持となり、威淳五年(1269)85歳で示寂した。
日本僧で彼に参じた者も少ないが、中でも南浦紹明がその法を嗣いで帰朝、その会下から宗峰妙超を打出し、その宗峰が大徳寺を創建、妙心寺の開山関山慧玄と大徳寺第一世の徹翁義亨の二大駿足を打出し、この大徳・妙心寺両派の禅が戦国時代から近世にかけて臨済禅の主流となったため、日本の禅界における虚堂の地位は一段と高まった。
「日本の照禅者」無象静照は、相模国に生まれ幼少で出家し、19歳で入宋、径山の石溪心月に参じてその法を嗣ぎ、さらに虚堂の門をたたき、帰朝後、仏心寺 興禅寺などを創建、聖福寺・浄智寺の住持となり、徳治元年(1306)73歳で示寂。
【伝来】武野紹鷗大文字屋ー松平不昧
【寸法】本紙縦28.8 横51.0
【所蔵】東京国立博物館