古林清茂 送別の偈 くりんせいむ そうべつのげ

古林清茂 送別の偈
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鶴田 純久の章 お話

国宝。
元僧古林清茂が日本僧別源円旨の帰国に際し、その求めに応じて書与えた送別の。
「円旨禅人は、遠く日本から渡来した鉄石のような求道心をもった修行者で、わが会下にあること三年、よく三十棒に堪えて修行した。
まだ大事了畢という境涯にはほど遠いが、今後さらに真剣に如法に修行し、他日、大徹大悟する暁には、吾家の児孫となすに堪えるであろう」と、激励と嘱望の意とを託したものである。
古林清茂は法を臨済宗松源派の横川如琪に嗣ぎ、金剛幢と号し休居叟と称した元代禅界きってじようの巨匠。
嗣法ののち平江府の白雲寺に出世、饒州の永福寺を経て金陵鳳台の保寧寺の住持となり、住すること八年、天暦二年(1329)68歳で示寂した。
彼の禅風は保寧寺を拠点として大いにふるい、会下から了庵清欲・竺仙梵僊が現われ、日本僧で参向する者も多かった。
月林道皎・石室善玖はことに有名。
別源円旨は越前に生まれ、円覚寺で十二年間修行ののち、元応二年(1320)入元し十一年間滞留して諸方を歴参し、帰朝後、越前弘祥寺の開山となり、晩年、将軍足利義詮の帰依を受け建仁寺の第四十四世住持となった。
偈頌を能くし『南遊集』『東帰集』をのこしている。
この偈は、古林の会下にあること三年、泰定二年(1325)保寧寺を辞去するにあたって請うたもので、時に古林は64歳。
【伝来】弘祥寺―朝倉家―織田信長寺 朝倉家 織田信長 丹羽長秀
【寸法】全体 縦113.0 横101.0 本紙縦35.7 横99.3
【所蔵】五島美術館

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