無準師範 板渡の書翰 ぶしゅんしばん いたわたしのしょかん

無準師範 板渡の書翰
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鶴田 純久の章 お話

国宝。
聖一国師円爾(弁円)が、その師無準師範の住する径山興聖万寿禅寺の炎上したことを知り、その復興のためにはるばる板千枚を寄進したのに対し、無準から送ってよこした感謝状であり、その因縁によって「板渡の書翰」と呼ばれて珍重されている。
径山万寿寺の火災は、円爾が無準のもを辞して帰国した翌年の淳祐二年(1242)で、時に円爾は日宋貿易に従事していた豪商謝国明の後援で、博多に承天寺を創建してその住持となっていたが、この板渡の一件も謝国明の協力を得てのもの。
本書翰はその性質上きわめて謹直な書体で書かれており、師弟の情の細やかなものである。
無準師範は蜀の剣州の出で、九歳で剃髪し諸方行脚ののち、霊隠寺の破庵祖先に参じてその法を嗣ぎ、育王山広利禅寺などに歴住し、ついに五山第一の径山興聖万寿禅寺に移り住すること二十年、その法門すこぶる栄えて雪巌祖欽・無学祖元・兀庵普寧などの法嗣を打出し、南宋理宗帝から仏鑑円照禅師の号を賜わり、淳祐九年、73歳で示寂した。
円爾は駿河国藁科に生まれ、幼少で久能山に入って俱舎・天台を学び、のち栄西派の禅に親しんだが、嘉禎元年(1235)入宋し無準に参ずること六年、ついその法を嗣ぎ、帰朝後、博多の承天寺・崇福寺で新しい禅風を挙揚、前摂政九条道家に招かれて上洛し、東福寺を創建して開山第一世となった。
弘安三年(1280)79歳で示寂。
【伝来】松平不昧
【寸法】本紙縦32.3 横100.4
【所蔵】東京国立博物館

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