一名 本多井戸
大名物 国宝
所蔵:大徳寺孤蓬庵
高さ:9.1cm ロ径:15.3~15.5cm 肩台外径:5.2~5.5cm 同高さ:1.5~1.7cm
井戸の首座に位する天下周知の名碗です。慶長のころ、大阪の町人の竹田喜左衛門が所持していたので喜左衛門井戸とよび、これを本多能登守忠義に献じましたので、本多井戸ともよんでいます。
素地は砂まじりの荒い土で、これに半透性の釉薬が厚くかかり、全面に荒い貫入があります。概して酸化炎焼成のため、内外とも枇杷色を呈していますが、ほんのりと青味を帯びたところもあります。分厚い口作り、豊かに張った胴、どっしりとした高台など、いかにも重々しい堂々とした茶碗で、姿のよさは天下無類です。
腰に三本、太いろくろの指筋が回り、高台は内外とも、ひとへらでたち、俗にいう竹の節高台になっています。数ある井戸でも、喜左衛門ほど高台に深い魅力を感じさせる茶碗はありません。俗にいう梅花皮(かいらぎ)ができるのは、高台を、へらでけずって、土の荒だっているためでもありますが、一つには朝鮮では貝を媒溶剤とし、貝の強いアクのはたらきで釉薬がちぢれ、そのため、かいらぎが生じたものと見るべきでしょう。もちろん火加減にもより、あまり強く焼けますと、梅花皮(かいらぎ)は溶けて流れてしまうものです。喜左衛門の場合は、ちぢれがとくにひどく、底裏など水玉のようなちぢれが生じ、切り回しとよんでいる高台協の削った部分半面は、素地を露呈しています。かつて、喜左衛門井戸は釉薬をかけてから高台脇の釉薬を削り落とし・さらにもう一度、高台脇半面だけに厚く釉薬をかけたものだという意見を発表した人がありますが、これは誤りだと思います。もともと社雑器である井戸を、まして朝鮮でそんな手間をかけてまで、いわば焼きそこないをつくるわけはありません。釉薬が厚くかかり、貝のアクがとくに強く、半面は釉薬が剥落したためにできた、高台の景色と見るべきでしょう。外側には、火間とよんでいる、釉薬のかかっていない部分があります。また、ひっつきとよんでいる、いくつか重ねて窯に詰めたため、下の茶碗の縁が胴に焼きつき、これをすって落とした跡を、魚形に漆でつくろったところもあります。
口縁にも、小さなきずを漆で直したところがいくつかあり、短い縦の樋(ひび)が何本かありますが、とくに目立つ割れとか、こわれはなく、土がもろく、きずの出やすい井戸としては、保存のいいほうです。
内面は枇杷色で、見込みが深く、真ん中にろくろ目がきりりとたち、中ほどに釉薬のなだれがあります。井戸には内面に重ね焼きの目あとのあるものがかなりにありますが、喜左衛門には目がありません。細川にも加賀にも、不昧公の三井戸は内面に目のないのが特徴とされています。
内箱黒塗 蓋表金粉字形「本多能登守忠義御所持 舟越伊予守添状 いとちゃわん」
中箱桐白木 蓋表「高麗 井戸 本多」
同蓋裏書き付け 荒木一斎「本多能登守殿所持、」局麗井戸茶怨 慶長之頃喜左衛門と云指上ル故喜左衛門井 戸卜云 舟越伊予守殿弄玩書有、後和州郡山引渡之節泉南巾村宗雪求之所持今寛延四辛未年塘氏為家蔵」
安永ごろ、松平不昧の蔵となりましたが、文政五年正月、夫人彰楽院が京都大徳寺孤蓬庵に審進しました。
(小山富士夫)
喜左衛門井戸 きざえもんいど
付属物:内箱 黒塗金粉文字 中箱 蓋裏 伝来書付荒木一斎筆 外箱桐白木書付
伝来:大阪竹田喜左衛門ト本多能登守-堺中村宗雪-安永年間に不昧公が購入-不昧公死後、央人静楽院が大徳寺孤蓬庵に寄進
所載:古今名物類聚 伏見屋覚書 銘物集 山澄家本高麗物之部 諸家名
器集:雲州公御虫払記 本屋了雲著苦心録 伏見屋宗理著名物茶碗図会 大崎様御道具代御手控 松平不昧伝 戸田弥七氏蔵書翰 大正名器鑑
「喜左衛門井戸」 一名「本多井戸」
朝鮮・李朝時代(16世紀),
大井戸茶碗・喜左衛門(きざえもん)(国宝)
京都・孤蓬(こほう)庵 口径 15.5 cm
井戸の首座に位する天下周知の名碗です。慶長のころ、大阪の町人の竹田喜左衛門が所持していたので喜左衛門井戸とよび、これを本多能登守忠義に献じましたので、本多井戸ともよんでいます。
素地は砂まじりの荒い土で、これに半透性の釉薬が厚くかかり、全面に荒い貫入があります。概して酸化炎焼成のため、内外とも枇杷色を呈していますが、ほんのりと青味を帯びたところもあります。分厚い口作り、豊かに張った胴、どっしりとした高台など、いかにも重々しい堂々とした茶碗で、姿のよさは天下無類です。
腰に三本、太いろくろの指筋が回り、高台は内外とも、ひとへらでたち、俗にいう竹の節高台になっています。数ある井戸でも、喜左衛門ほど高台に深い魅力を感じさせる茶碗はありません。俗にいう梅花皮(かいらぎ)ができるのは、高台を、へらでけずって、土の荒だっているためでもありますが、一つには朝鮮では貝を媒溶剤とし、貝の強いアクのはたらきで釉薬がちぢれ、そのため、かいらぎが生じたものと見るべきでしょう。もちろん火加減にもより、あまり強く焼けますと、梅花皮(かいらぎ)は溶けて流れてしまうものです。喜左衛門の場合は、ちぢれがとくにひどく、底裏など水玉のようなちぢれが生じ、切り回しとよんでいる高台協の削った部分半面は、素地を露呈しています。かつて、喜左衛門井戸は釉薬をかけてから高台脇の釉薬を削り落とし・さらにもう一度、高台脇半面だけに厚く釉薬をかけたものだという意見を発表した人がありますが、これは誤りだと思います。もともと社雑器である井戸を、まして朝鮮でそんな手間をかけてまで、いわば焼きそこないをつくるわけはありません。釉薬が厚くかかり、貝のアクがとくに強く、半面は釉薬が剥落したためにできた、高台の景色と見るべきでしょう。外側には、火間とよんでいる、釉薬のかかっていない部分があります。また、ひっつきとよんでいる、いくつか重ねて窯に詰めたため、下の茶碗の縁が胴に焼きつき、これをすって落とした跡を、魚形に漆でつくろったところもあります。
口縁にも、小さなきずを漆で直したところがいくつかあり、短い縦の樋(ひび)が何本かありますが、とくに目立つ割れとか、こわれはなく、土がもろく、きずの出やすい井戸としては、保存のいいほうです。
内面は枇杷色で、見込みが深く、真ん中にろくろ目がきりりとたち、中ほどに釉薬のなだれがあります。井戸には内面に重ね焼きの目あとのあるものがかなりにありますが、喜左衛門には目がありません。細川にも加賀にも、不昧公の三井戸は内面に目のないのが特徴とされています。
内箱黒塗 蓋表金粉字形「本多能登守忠義御所持 舟越伊予守添状 いとちゃわん」
中箱桐白木 蓋表「高麗 井戸 本多」
同蓋裏書き付け 荒木一斎「本多能登守殿所持、」局麗井戸茶怨 慶長之頃喜左衛門と云指上ル故喜左衛門井 戸卜云 舟越伊予守殿弄玩書有、後和州郡山引渡之節泉南巾村宗雪求之所持今寛延四辛未年塘氏為家蔵」
安永ごろ、松平不昧の蔵となりましたが、文政五年正月、夫人彰楽院が京都大徳寺孤蓬庵に審進しました。
(小山富士夫)
喜左衛門井戸 きざえもんいど
慶長の頃大阪の町人竹田喜左衛門といふ者所持しが故に名あり。又本多能登守忠義に傳りて、本多井戸とも云ふ。
大正名器鑑
高麗茶碗の良さというか,味わいというものは井戸茶碗に尽きるといわれています。
ということは,茶人たちが高麗茶碗に求めた美しさは,井戸茶碗のような作振りのもの,即(すなわ)ち飾り気のない素朴な姿,全く華美でない渋い落ち着きのある釉色,そして一つの姿として茶碗を観(み)るとき,茫洋(ぼうよう)とした大きさと,捉(とら)えどころのない風格が感じられる茶碗ということになります。
それは正に大井戸茶碗の姿であり,「喜左衛門」はその全(すべ)てを備えた茶碗といえます。
伸び伸びとしたこだわりのない姿,中央が竹の節のような高台がしっかりと受けているのが印象的ですが,その伸び伸びとしたロクロ目は,井戸茶碗の最大の特色であり,竹節状に削り出された高台も,節立っているがために,全体の姿を引き締まったものにしていることから,やはり大きな見所の一つに挙げられています。
釉は灰褐色のいわゆる井戸の枇杷(びわ)色釉と呼ばれる釉薬(ゆうやく)が厚く掛かり,高台回りは梅花皮(かいらぎ)状に縮れています。
このかいらぎはそれこそ見方によっては不潔な感じをもたせますが,全体の渋く静かな色感の中に,唯一つの激しい景色であるといえ,茶人はそうした変化に目を付けたのでしょう。
茶席の茶碗として用いられるものの最高位は井戸茶碗であり、中でも最も名声高いのが、この喜左衛門井戸です。従って茶碗の王者と称してはばかりありません。
井戸茶碗の名の由来については古来もろもろの説がありますが、近ごろの研究によると、およそ李朝の初めごろ、釜山の西北、泗川港の近くの晋州あたりで焼かれたものと推定されています。
この井戸は、慶長のころ大阪の竹田喜左衛門なる人物が所持していましたので、その名が出ました。後に彼は零落して島原の客引きから乞食同然の身となりましたが、この井戸だけは身につけて離さなかった、というような伝説があります。それほど人を惹きつける魅力があるといえましょう。大きく堂々とした椀なりに竹の節高台がつき、枇杷色の粕薬は高台脇と高台内で結粒して、いわゆる梅花皮(かいらぎ)を見せる。あらゆる約東を具備した、最高の名物井戸です。
喜左衛門井戸 大井戸 一名本多井戸
名物手 大名物 国宝
付属物 内箱 黒塗 金粉文字 中箱 蓋裏 伝来書付 荒木一斎筆 外箱 桐白木 書付
伝来 大阪竹田喜左衛門―本多能登守―堺中村宗雪―安永年間に不昧公が購入―不昧公死後、夫人静楽院が大徳寺孤蓬庵に寄進
所載
古今名物類聚 伏見屋覚書 銘物集 山澄家本高麗物之部 諸家名器集 雲州公御虫払記 本屋了雲著苦心録 伏見屋宗理著 名物茶碗図会 大崎様御道具代御手控 松平不昧伝 戸田弥七氏蔵書翰 大正名器鑑
寸法
高さ:8.2~8.9cm 口径:15.2~15.4cm 高台径:5.3~5.5cm 同高さ:1.4cm 重さ:370g
所蔵者 京都孤蓬庵
茶席の茶碗として用いられるものの最高位は井戸茶碗であり、中でも最も声名高いのが。この喜左衛門井戸です。従って茶碗の王者と称してはばかりありません。
井戸茶碗の名の由来については古来もろもろの説があります。ただ近ごろの研究によると、およそ李朝の初めごろ、釜山の西北、泗川港の近くの晋州あたりで焼かれたものと推定されています。
この井戸は、慶長のころ大阪の竹田喜左衛門なる人物が所持していましたので、その名が出ました。後に彼は零落して島原の客引から乞食同然の身となりましたが、この井戸だけは身につけて離さなかった、というような伝説があります。それほど人を惹きつける魅力があるといえましょう。大きく堂々とした椀なりに竹の節高台がつき、枇杷色の釉薬は高台脇と高台内で結粒して、いわゆるかいらぎを見せます。あらゆる約束を具備した、最高の名物井戸です。
喜左衛門井戸 きざえもんいど
大井戸茶碗。
国宝、大名物。名物手。
一名「本多井戸」。
総体に枇杷色だが一部青みを帯び、轆轤目荒くめぐり、胴に一部火間がみえ、また鯉魚形の細長い繕いがある。
腰以下に轆轤目きっかりと立ち、高台周りはかいらぎ釉が水玉のごとく飛び散り、その半分以上は土をみせ、このあたりの景色は特にすぐれ、世に名高い見所となっている。
大きく堂々とした椀形に竹の節高台が付き、高台内にもかいらぎが現われ、その中央は突出している。
作行きが非常に手強い。
内部は枇杷色で黄みを帯び、目痕はない。
茶碗半分に轆轤目一筋目立ち、釉なだれも面白い。
見込は深く、中央に轆轤目がきりきりとまわる。
口縁に小さい漆繕いが数力所あるが大ひびはない。
李朝初期、晋州あたりで焼かれたと推定されている。
この井戸は慶長の頃、大阪の竹田喜左衛門なる大物が所持していたのでこの名があり、のちに零落して乞食同然の身となってもこの井戸だけは離さなかったという伝説もあるが、それほど大を惹きつける魅力があったといえる。
のち本多能登守忠義に伝わり「本多井戸」とも呼ぶ。
あらゆる約束を具備した名物井戸の代表作で、茶碗の王者といえよう。
【付属物】内箱-黒塗金粉文字中箱-蓋裏伝来書付荒木一斎筆 外箱-桐白木書付
【伝来】大阪竹田喜左衛門-本多能登守-中村宗雪1塘氏-松平不昧1松平月潭-大徳寺孤蓬庵
【寸法】高さ8.2~8.9 口径15.2~15.4 高台径5.ごて5.5 同高さ1.4 重さ370
【所蔵】大徳寺孤蓬庵
喜左衛門井戸 きざえもんいど
国宝。
大名物。
朝鮮茶碗、
名物手井戸。一名本多井戸。
慶長(1596~1615)の頃大阪の町人竹田喜左衛門が所持していたのでこの名があります。のち本多能登守忠義に伝わったので本多井戸とも呼びます。外部は総体に枇杷色で一部青味を帯びた所があり、轆轤目が荒く巡り胴に一部火間があります。ま鯉形の細長い繕いがあります。腰以下はかいらぎ釉水玉のように飛び散り、高台廻りに轆轤がきっかりと立ち、その半分以上が土を見せ、この辺にことに多く荒いかいらぎの付着した景色はいいようもなくおもしろいです。高台は竹の節が高く、縁の一部の面はこすれて厚薄が不規則であります。高台内はやや深い方で、荒いかいらぎがぶつぶつと現れ、その中央は尖出しています。だいたいの作行は非常に手強く、高台内外の土の見えるところとかいらぎの付着した所とが相錯綜して茶味比類ない茶碗であります。内部は枇杷色に黄味を帯び、目はなく、茶碗の半分にわたって轆轤目が一筋目立ったところがあります。釉なだれがおもしろく、見込は深く、中央に轆轤目がきりきりと廻っています。内部の景色は割合に少なく、その世に名高いのは高台廻りの作行が非凡ですからでしょう。口縁に小さい漆繕いが数ヵ所あり、また短い竪樋が数本あるが大ひびはありません。高麗焼物中で最古の作であろうと思われます。この茶碗は竹田喜左衛門から本多能登守に奉られ、1634年(寛永一一)本多氏大和郡山に封を移されますに際し泉南の好事家中村宗雪に譲られ、1751年(寛延四)には塘氏の所蔵となり、安永(1772~81)の頃松平不味が金五百五十両で購求し、大名物の部に列し「天下の名物なり。永々に大切にいたすべきものなり」と世嗣に命じました。しかしこの茶碗の所持者には腫物のたたりがあると伝えられ、不味もまた図らずも腫疾を病んだので、夫人彭楽院はこれを手離すように勧めたが不味はなお惜しんで承知しなかったようです。不昧の没後子の月潭もまた腫物を病み楽院の憂慮は一方ならず、1822年(文政五)正月家老柳田四郎兵衛の帰国に托してこの茶碗を京都孤蓬庵に寄付しました。この腫物の伝説については古来異説が多いようです。出雲国の故老の伝えるところでは、元の所持者が零落して京都島原の者と成り果てましたが、なおこれを袋に入れて首に掛け終生身から離さなかったといいます。不味がこれを求める時も臣下に諫める者がありましましましたが、懸念することなく購求したといいます。(『古今名物類聚』『諸家名器集』『雲州公御忠払記』『銘物集』『松平不昧伝』『大正名器鑑』)