十七世紀。
本歌は東京音羽の護国寺伝来の振袖であり、三代将軍家光の側室で五代綱吉の生母であった桂昌院は、正保三年(1646)綱吉を産んでいるから、その頃までにつくられたものであろう。
「黒地梅花模様振袖」(本歌)は寛永頃の意匠様式で、匹田型絞りの梅の枝によって、左右黒白に仕切られ、あたかも夜の白梅、昼の紅梅を想わせるような構図である。
空間は慶長裂に比較してはるかに大きな構成をみせ、次の寛文期の一層大柄で斬新な模様への展開を秘めている。
当時このような衣装が流行したが、綸子地に匹田型絞り、刺繍などの施された特徴ある小袖裂を総称して桂昌院裂と呼び、表具の裂としてしばしば散見することができる。